建築から学ぶこと

2014/04/23

No. 422

聖なる日に考える、リーダーシップ論

前大阪大学総長でもある哲学者・鷲田清一氏の講演を聴いた。このところの鷲田氏は「しんがりの思想」が大切だとして、上から引っ張るよりも、登山のパーティでいう<しんがりの位置>から全体の動きを見渡し支えるリーダーシップが望ましい、と語っている。そうしたありようはこの時代には説得力を持つようで、話を聴きながら、ある経営者が自分の後継者を指名するにあたって、あなたならサーバント・リーダーシップの精神で務められるだろう、と口説いたという話を思い出した。

ところで、鷲田さんの話を聞いた日はキリスト教の暦で聖金曜日、すなわちキリストの受難の日に当たっていた(2014年は4月18日)。聖書には受難前夜からのドラマが入念に書きこまれていて、ひとりの人間の死をめぐってあたふたする人間像は面白い。キリストの高弟であるペトロは、3度にわたってキリストとの関係を否認するのだが、これを聖書作者は人間の弱さゆえの失策例として前向きに捉えた。キリストは反省したペトロを後継者に選んだのである。このあたりはリーダー論として共通する逸話だ。

一方で、聖書はローマ総督ピラトの采配ぶりを冷ややかに描いてみせている。エリートであるピラトは大物ぶりを見せつけようとして余裕たっぷりにキリストを尋問するが、思い通りにならないキリストを前に次第に迷い始め、ついには群衆に採決の結論を放り投げるという職場放棄に至る。これはいけない。聖書作者は、さしたる悪人でもなかったピラトのリーダーシップの欠如に対しては、一片の憐憫すらない。

このくだりから、リーダーの条件とはそのキャラクターが強いか弱いかよりも、重要局面で逃げを打たないことだと読むことができる。この同じ日に一緒になった指揮者は、オーケストラでの仕事で大事なのは、プレイヤー相互のコンセンサスと危機管理だ、と話してくれた。リハーサル中あるいは演奏中に方向性がバラバラになりかける局面で、どう収拾するかは手腕が問われるが、そこではセンスとイマジネーションも大いに問われる。

佐野吉彦

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