建築から学ぶこと

2016/12/28

No. 554

平賀源内に触発されたひと

秋田蘭画のリーダーであった小田野直武(1749-80)は角館に生まれた。家は秋田藩の士分である。長じて秋田藩主・佐竹曙山に仕えた。結果として長命ではなかったが、有能なエンジニアかつ画家として名を残し、大きな影響力を持った小田野。その道のりを「世界に挑んだ7年/小田野直武と秋田蘭画」(サントリー美術館-2017.1.9)でたどることができる。彼にとっては1772年、平賀源内(1728-79)が藩の招きで秋田に来たことが転機となった。老中・田沼意次の時代、さまざまな分野でイノベーションが起こった時代に、源内が請われて秋田藩を訪れたのは、当地の鉱業の事業展開の可能性を探るためだとされる。そこで源内は小田野直武に技術を教えただけでなく、蘭画の手ほどきもした。
多才な平賀源内の本分は本草学者である。モノに即して真理を究め、モノが生み出すイノベーションに着目し、そしてモノがつなぐ人と人のネットワークを重要と感じた。源内が惜しみなく与えた絵画の新技法は、幸いなことに小田野の中で発酵した。さらに、源内が任を終えて江戸に戻った直後、小田野は銅山方産物吟味役に任ぜられて江戸に出、杉田玄白はじめ多くの源内ネットワークからさらに影響を受けることになる。私は、源内や小田野が登場するこのあたりの話を、実はNHKドラマ「天下御免」(1971-72)を通して知っていた。平賀源内は私にとってのヒーローとなったが、異なる夢を抱く才能どうしが刺激しあう場というものに、高校生の私は憧れを抱いた。
後で気づいたことだが、人は、人を無理に触発しようとしてもできるものではない。触発されるかどうかは受け手の感受性である。これが世の中を面白くしている。平賀源内は「程よい加減」で学術情報を渡し、真面目な小田野直武がそれを重要と受け止めた。幕末まではまだ時間はあったが、結果として江戸時代の針は確実に進んだのである。

佐野吉彦

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