建築から学ぶこと

2017/02/08

No. 559

「沈黙」を通して考えること

遠藤周作による小説「沈黙」は、日本におけるキリスト教の定着の可能性を扱っていた。文化の違いは遠藤にとってとりわけ重要な問題、いや切実な問題であっただろう。それは肉体と精神との間にあるきしみにも触れていた。一方で「沈黙」が世に出た1966年、柴田翔「されどわれらが日々」の1964年は、思想の転向をめぐる問題が、まだ生々しかった時代だかもしれない。そのことは知人が指摘してくれたが、生硬な信条が現実を前にしてあっけなく挫折する、というのはある時期まで現代人の大きなテーマだった。

今年日本で封切られたマーティン・スコセッシ監督による映画「沈黙」(2016)は、遠藤の原作に沿ったものになっているが、力点は変えている。ひとつは、信念を心に抱く人はどう生きるべきかの問いかけである。そもそも、変えることも変えさせることも難しいのが信念というもので、それは今日も同じである。あっけない挫折などは甘美な思い出にはならないのだ。もうひとつは、自らと異なる前提に立つ者に対する尊厳をめぐる問題である。17世紀初頭の日本における迫害にはそうした寛恕が欠如しているが、これをマイノリティの信条をやすやすと踏みにじる政治の苛烈と捉えると、一挙にテーマは現代の問題に反射してくる。あなたは「今」をどう考えるのか、をこの映画は問いかけている。

ところで、映画のロケは台湾東海岸で行われたという。荒海に向きあう孤村には希望が失われかけており、悲劇の時代の描写として効果的である。だが実際、1世紀にわたるキリシタンの時代は日本に豊かな情報と精神文化をもたらし、禁制の時代に移ってもひそかにコミュニティを支える所作が残った。異教は、確実に日本史の一翼を穏やかに支えたと言える。そうした史実は「沈黙」の視界外だが、信念が人を動かしえた成果もあったのである。それについても忘れずにいたい。

佐野吉彦

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