建築から学ぶこと

2017/08/23

No. 586

渋沢からつながるもの

のどかな田園風景にあって、その母屋は見るからに立派な姿をしている。現在は深谷市域に含まれる農家が、渋沢栄一の生家である。家業を通じて社会のしくみを学びはじめた渋沢は、やがて村を出て、多くの企業を興し、社会福祉事業にも尽くした。同じ空気を共有した政治家であり都市計画家の後藤新平とは、同志というより、相補する関係と言えるかもしれない。事実、後藤が関東大震災(1923)直後に帝都復興院総裁に就任すると、早速渋沢に協力を求めたと言われる。
ところで深谷には、渋沢が設立に関わった旧・日本煉瓦製造の工場施設が残る(重要文化財)。ここで生産された煉瓦は、東京駅(1914)はじめ明治から大正にかけての重要な建築・土木遺産で用いられる。建築家・辰野金吾の真骨頂が東京駅であり、ここで見られる「辰野バロック」と呼ばれたブランドを、「渋沢印」の煉瓦が支えることになった。その後各地に及んだ足跡のなかで、辰野は日本銀行大阪支店(1903)の設計時に縁を得た片岡安をパートナーとして辰野片岡事務所を大阪に設立する(1905)。以降、晩年に近い大阪市中央公会堂(1918)に至るまで、この事務所は近畿圏での辰野ブランド実現を担う設計組織となった。
それにしても縁は不思議なつながりかたをする。後藤新平と片岡安は「特定地域に留まらない都市計画法と、市街地建築法」の制定(1919)の過程で協力的関係となる(第110回参照)。彼らはそれぞれの経験と情熱を組み合わせて都市興隆の基盤を整えたが、結果として震災復興にもうまく機能した。近代日本の傑物は、事をなすために連携すべき人をうまいタイミングで見出したということができる。
余談ながら、後藤には南満州鉄道総裁を務めた時期(1906-08)があった。安井武雄はそこで建築技師を務めた後(1910-20)、辰野亡き後の片岡の事務所に誘われて入所する。安井はそうして、大阪に来た。ここにも縁があった。

 

[年譜]
渋沢栄一(1840-1931)
辰野金吾(1854―1919)
後藤新平(1857-1929)
片岡 安 (1876-1946)
安井武雄(1884-1955)

佐野吉彦

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