建築から学ぶこと

2017/11/15

No. 598

西長堀の物語

小学校の高学年のころ、西長堀に幾度か出かけたことがあった。阪急電車で梅田まで出て地下鉄御堂筋線に乗り換え、心斎橋で長堀通のトロリーバスに乗り継いで西へ走り、四ツ橋を過ぎると、埋め立て前夜の長堀川が併走を始める。鰹座橋停留所で降りて橋を渡ると、巨艦のごとき<西長堀アパート>(1958)が姿を現す。それが目的地だった。日本住宅公団による、今はない<晴海団地高層アパート>(1957)と同世代の、時代を先取りした高層住宅である。住戸は南側に並列していて、北側に置いた長い廊下は開放せず、スリット窓を繰り返した大壁面で閉じこんでいる。外観にもモダンリビングには疾走感があふれている。この造形が、北に位置する長堀川に向きあっているのだ。それに、一部が架台からはみ出す形状の塔屋、エントランスには「具体美術」のアーティスト・吉原治良の作品などが加わって、じつに刺激的な場所として仕上がっている。
この真新しい「城」には、司馬遼太郎や森光子など文化人が住まいしていたという。まさに戦後の大阪の復興とともにアパートは育ち、成熟していった。幸いなことに、物語はまだ続く。昨年、大規模なリノベーションが施されて輝きを取り戻し、新たな住まいかたのニーズを掘り起こすことになった。水際にある、まさしく<西長堀アパート>はいまも大阪の水先案内人の役割を務めている。
そもそも西長堀とは、このような最先端を受け入れるポテンシャルを持つ場所だったようである。江戸時代の長堀川の両岸には土佐藩が屋敷を構え、ここで海産物をはじめとする交易をおこなっていたし、明治になると土佐出身の岩崎弥太郎が屋敷を設けた。そうした来歴は土佐稲荷神社や鰹座橋の名に残っている。また、文人・本草学者の木村蒹葭堂の屋敷が近くにあったり、西長堀アパートの敷地が戦後の一時期、大阪市立大学家政学部の学舎が置かれたりした。川は消えたけれども、いつの時代も、西長堀は賑々しく、また時代の舳先であり続けているのである。

 

※ 本稿は佐野による記事『全国に誇るオーサカ建築「西長堀アパート」』(建設通信新聞2017.11.7)と関連している。

佐野吉彦

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