安井武雄は、大阪野村銀行堂島支店(1922年)と同本店(1924年)の設計で野村徳七の知遇を得る。徳七はこの時期、野村證券をはじめ、銀行、保険、貿易など一大企業グループを形成しつつあった。1924(大正13)年に独立する安井武雄にとって最良の理解者であり、最大のクライアントとなる。徳七はビル経営にも積極的であった。堺筋沿いに、北浜野村ビル(1921年、竹中工務店の設計施工)、備後町の上記本店ビル、そして1927(昭和2)年に当建築を建設する。高麗橋野村ビルは敷地に奥行が乏しく、また全室貸室ということもあって立面の構成は単純である。しかし細部は複雑な企みに満ちている。腰壁は前面に傾斜し、各階窓下には瓦の帯が走る。壁面の1階は凝灰岩とタイル、2階以上はモルタルの掻き落としと、土を連想させる材料で仕上げられる。近代性と原始性をあわせもつ秀作。なお、7階部分は戦後の増築。