真にして美なるもの
創業者安井武雄は大阪倶楽部(1924)の竣工を機に自らの設計事務所を設立した。安井建築設計事務所の源流である。このとき安井はすでに40歳であり、当時であれば十分なベテランである。やがて昭和初期の大阪で活躍した野村徳七、片岡直方、山口吉郎兵衛といった実業家たちが、安井に自らの事業の夢を託すことになるが、造形力だけでなく、その現実的な設計能力にも期待したのではないかと思われる。
あるとき、安井武雄は自分のデザインのスタイルは自由様式だと表現したことがある。実際に、住宅作品においても、オフィスビルにおいても、無理に同じ解に持ち込むことはしていない。そのような着想力を持ちながら、安井は生涯を通じて剛毅な精神を貫き、プロとしてあるべき姿を社会に示そうとした。
いったい安井武雄はどのように歩みを進めたのか。その軌跡と作品を時の流れとともにたどってみたい。
学びの時代
安井武雄は1884年千葉県佐倉市に、陸軍少佐の父:信胤(のぶたね)、母:勇(ゆう)の次男として生をうけた。長男:義之助(後に軍人となる)、長女:貞、三男:信介、四男:克己の5人兄弟のちょうど真ん中の第三子になる。小学校、中学校は愛知県豊橋市で過ごした。母方の祖父:佐山作造も軍人である。
1903年第一高等学校入学後は白馬会*にて油絵を藤島武二に師事し、影響を受ける。しかし、目指したものは建築のデザインであった。
*白馬会:黒田清輝が1896年に創設した新思想の洋画団体
上:東大の学友たちと(1909)後列左端が安井武雄
下:東大の卒業設計「住宅」の図面(所蔵:東京大学大学院工学系研究科建築学専攻)
1907年東京帝国大学工科大学建築学科に入学、同級生であり生涯の友である高松政雄と本郷西片町の下宿で3年間共に過ごした。
帝国大学では洋風建築を3年かけて勉強し、卒業設計では鉄骨や鉄筋コンクリート造建築を設計するのが慣例となっていたが、それを破って安井は木造和風住宅を提出したため、恩師である佐野利器助教授を激怒させた。しかし、いわゆる武家住宅の系譜から離れて独自の和風住宅を提案したことは、やがて森井健介、村野藤吾、辰野金吾らからは高く評価された。
海外での研鑽
安井は1910年南満州鉄道(本社大連)に入社した。約10年間の満鉄時代に井上浄(きよ)と結婚し、長男:正が生まれている。
満鉄は鉄道事業のほかにもあらゆる事業を展開していたため、安井はいろいろな用途の建築に携わった。東洋風と評される安井独自の卓越したデザイン能力を賞賛しない人はいなかったと言われる。
上:南満州鉄道中央試験所(1915)
下:大連税関長官舎宅のスケッチ/大連税関長官舎宅玄関窓ステンドグラス図案のスケッチ
1919年片岡建築事務所入社。帰国した安井は片岡安の事務所に入社する。片岡は当時、大阪の主要建築を手がけただけでなく、関西建築協会(のち日本建築協会)の創設など建築界をリードし、また大阪の経済界の中心人物であった。
在籍中の1920年、安井はニューヨークの建築事務所と協働で病院計画をおこなうため渡米している。また、約6か月の滞在中にサンフランシスコ、ニューヨーク、シカゴなどの建築を視察したことは建築の新しい思潮を知る貴重な機会であった。
下:前列左に片岡安、右に曾根達蔵、中央に安井武雄/神戸川崎造船所総合病院設計
パース(1920頃)
日本の建築界の発展のために
片岡建築事務所時代、特筆すべきなのは野村徳七との出会いである。野村證券会社を設立し、注目を集めていたこの実業家からの依頼があった、大阪野村銀行堂島支店の設計担当者となったのである。この建設の成功によって信頼を得、やがて大阪野村銀行本店の担当に指名される。
上:大阪野村銀行本店役員応接室のカーペット模様図案
下:野村徳七(提供:野村ホールディングス株式会社)と大阪野村銀行本店(1924)
1924年4月、再建された大阪倶楽部の竣工とともに安井武雄建築事務所がスタートを切る。大阪市西区の日清生命館の一室、所員は7名であった。もともとの大阪倶楽部は野口孫市の設計で1914年完成したものだが、1922年失火で全焼する。安井はその再建の設計を片岡建築事務所在職中に大阪倶楽部臨時建築事務所長として携わっていた。
程なく野村徳七から、1926年竣工の野村證券本社(大阪)の設計を任される。隅々まで考え抜かれ、寸分のすきもないきびしいディテールによって、金融機関としての迫力と重みを表現している。
下(左):屋上にて高麗橋野村ビルディング落成記念撮影(1927)。後列左より大西、進藤、西勝、川村、三国、前列に浜村、安井、石原
下(右)独立のきっかけとなった大阪倶楽部
そこから安井武雄はオフィスや住宅、工場をはじめ、今日も残る名作を生み出してゆく。大阪を代表する近代建築大阪ガスビルは1966年に北館が増築され、日本橋野村ビルも同じように戦後に増築されて今日も健在である(そのほかの作品については後で紹介する)。
安井武雄は、片岡安が創設した日本建築協会での活動にも携わったほか、京都帝国大学や早稲田大学で後進を指導するなど建築界を牽引する役目を担った。
下:大阪ガスビル(1933)と日本橋野村ビル(1930)
安井の名を冠した事務所は1951年に株式会社安井建築設計事務所に変わった。そして1955年、視察に赴いた帰路急病を発し、安井武雄は71歳で逝去する。安井亡き後は女婿の佐野正一(1921-2014)が事務所経営を継承した。
それまでの佐野正一は東京帝国大学の建築学科を卒業したのち、国鉄の建築技師としての経験を積んでいた。佐野はその合理的アプローチとともに、地域に根ざした手堅いセンスによって作品をまとめ、新境地を切り拓いて組織を飛躍的に成長させた。安井武雄による大阪ガスビルや日本橋野村ビルについては増築設計を統率しているが、組織の先駆者に対する深い敬意と、新たな覚悟を感じさせる成果を残している。
下:増築後の大阪ガスビル(1966増築)と日本橋野村ビル(1959増築)
代表作品
山口吉郎兵衛邸 1933
大阪の貿易商布屋の2代目、山口銀行(三菱UFJ銀行の前身)を興した山口吉郎兵衛の邸宅を芦屋に移すに際して、設計を安井に依頼した。
襖、障子を取り外せば80帖以上の大広間になり、山口家の公式行事に使用していた。現在は滴翠美術館として使用されている。
高麗橋野村ビル 1927
1階と最上階をやや軽くし、2~5階の中層部を水平・垂直の線や面を組み合わせて量感を高める、均整のとれた動的(ダイナミック)な表現が造形の主軸となっている。大阪の主要な通りである堺筋に面しており、いまもオフィスビルとして健在である。
南満州鉄道東京支社 1936
満鉄に在籍した建築家の中で、安井は日本国内に唯一作品を残した。
東京虎ノ門、三方道路で一方は公園に接した絶好の場所に建ち、広く周囲から見栄えがするものだったという。
平面計画は緻密に練りあげ、外観は堂々とした現代風で外装スタイルの淡クリーム色、一部に黒花崗石と白の稲田石を貼って色彩のアクセントとしている。敗戦後の満鉄解体後は進駐軍に接収されたのち、消失した。
日本競馬会京都競馬場 1938
視界を確保するための支柱のない27m持ち出しの大屋根の同施設は馬蹄形スタンドが特徴である。戦時供出で大屋根が取り外されたあとも使用され、その後、長きにわたって安井建築設計事務所によって大規模な増改築が継続している。
安井武雄自邸 1931
安井は住宅の設計も多く手掛けている。
大阪の郊外、兵庫県の西宮市夙川にあった安井の自邸は、近代建築の歩みの中で、一際強いメッセージを発するものである。阪神淡路大震災まで住宅として使われていた。この夙川から芦屋にかけては、ヴォーリズやライト、村野藤吾らによる住宅作品がいまも残る場所である。
下:左から安井、正(長男:ただし)、史(次女:ふみ)、基(三女:もと)、浄(妻:きよ)、理(長女:みち)
年譜
1884 (明治17)年
千葉県佐倉に⽣まれる
1903 (明治36)年
豊橋中学から第⼀⾼等学校に⼊学
⽩⾺会洋画研究所で藤島武⼆の指導を受ける
1910 (明治43)年
東京帝国⼤学⼯科⼤学建築学科を卒業
南満州鉄道株式会社に⼊社
1911 (明治44)年
中国各地を巡り東洋⾵といわれるデザインの素地を⾝につける
*⼤連税関⻑官舎(中国・⼤連)
1919 (⼤正8)年
⽚岡建築事務所に⼊所
1920 (⼤正9)年
⽚岡建築事務所より派遣され渡⽶
滞在中に⽶国主要都市の建築を視察
1921 (⼤正10)年
⽶国より帰国
⼤阪毎⽇新聞社代理部(⼤阪)
1922 (⼤正11)年
⼤阪倶楽部臨時建築事務所を組織主宰
野村銀⾏堂島⽀店(⼤阪)
1924 (⼤正13)年
安井武雄建築事務所を開設
野村銀⾏本店(⼤阪)
*⼤阪倶楽部(⼤阪)
1925 (⼤正14)年
早稲⽥⼤学講師に就任(〜1935 年)
1926 (⼤正15)年
東京事務所を開設
⼤阪市⽴汎愛尋常⾼等⼩学校(⼤阪)
野村銀⾏京都⽀店(京都)
野村證券本社(⼤阪)
1927 (昭和2)年
*⾼麗橋野村ビル(⼤阪)
1930 (昭和5)年
*⽇本橋野村ビル(東京)
1932 (昭和7)年
⽇本建築協会教化委員⻑に就任
味の素ビル(東京)
1933 (昭和8)年
京都帝国⼤学講師に就任(〜1946 年)
*⼤阪ガスビル(⼤阪)
*⼭⼝吉郎兵衛邸(兵庫)
1935 (昭和10)年
野村元五郎邸(兵庫)
1936 (昭和11)年
⽇本建築協会副会⻑に就任
南満州鉄道東京⽀社(東京)
1937 (昭和12)年
*京都野村⽣命ビル(京都)
1938 (昭和13)年
⽇本競⾺会京都競⾺場(京都)
1940 (昭和15)年
安井武雄作品譜(城南書院)を刊⾏
1951 (昭和26)年
株式会社安井建築設計事務所に組織変更
1952 (昭和27)年
⼤和紡績本社(⼤阪)
1953 (昭和28)年
⽇綿実業本社ビル(⼤阪)
*⽇本郵船神⼾⽀店改装(兵庫)
1955 (昭和30)年
⽇本建築協会名誉会員に推挙
5 ⽉23 ⽇逝去
*現存
1984(昭和59)年
建築史家の山口廣氏による「自由様式への道・建築家安井武雄伝」(南洋堂出版)が発刊
2002(平成14)年
大大阪時代の建築(10.23-12.16):大阪歴史博物館
2017(平成29)年
建築家・安井武雄の創造力-近代大阪の精華(12.1-12.26):大阪府立中之島図書館
2018(平成30)年
大大阪モダニズム-片岡安の仕事と都市の文化(7.21-9.2):大阪くらしの今昔館
2018(平成30)年
知られざるドイツ建築の継承者-矢部又吉と佐倉の近代建築(11.3-12.24):佐倉市立美術館
2019(平成31)年
子どものための建築と空間展(1.12-3.24):パナソニック汐留ミュージアム
2019(平成31)年
子どものための建築と空間展(7.27-9.8):青森県立美術館