開かれた競馬場を目指して

京都競馬場

1938年に完成した二代目スタンド以来、受注してきた
増改築工事。今回も決して「落とすわけにはいかなかった」

1925年12月、京都市伏見区淀に開場した京都競馬場。100周年を迎える2025年を前に、場内全体を900日余り閉鎖し、開場以来5度目となる大規模な整備工事を進め、2023年4月22日、「センテニアル・パーク京都競馬場」としてグランドオープンした。
 初代社長・安井武雄が設計を手がけた二代目スタンドが完成したのは1938年のこと。跳ね出し23メートルの無柱の大屋根、曲線美が目を引く妻側から見たデザイン、ゴンドラ状の審判席など、前例のない意匠設計によって“近代競馬場の先駆け”と評された二代目スタンド以降、安井建築設計事務所では、増改築したすべてのスタンドの設計を担当している。
入社以来、京都競馬場の設計・監理に携わってきた橋本和典は、
「日本中央競馬会(以下、JRA)は特殊法人のため、発注はプロポーザルによって公平に行なわれます。初代社長以来続いてきた京都競馬場の設計については『取りたい』ではなく、『落とすわけにはいかない』というのが正直なところで、確実に受注するには奇を衒った案を出すことはできませんでした。とはいえあまりおもしろみのないものを提案するのも、それこそおもしろくないわけで。長年、京都競馬場に携わってきた事務所としてJRAさんにどんな提案をすればよいか。その匙加減が難しいところでした」と、100周年記念事業となった一大整備プロジェクトを振り返る。

スタンド側の大屋根25メートル、パドック側の大庇18メートル、
さらに妻側の両面と、東西南北に跳ね出したダイナミックな外観

周知の通り、競馬場は非常にスケールの大きな施設である。今回は延べ面積約6万5000平方メートルのメインスタンドをはじめ、敷地内に大小合わせて新たに100棟をつくる大プロジェクトであったため、社内では早くから京都競馬場の専属チームが立ち上げられたという。
 出走前の競走馬の状態を観察できるパドック側、レースを観戦する馬場側。競馬場にはふたつの大きなファサードがある。建物の機能や目的を象徴する各ファサードは競馬場の顔であり、そのデザインは設計チームにとってセンスと力量の見せどころといえるが、完成したファサードは、実は特定された案からある部分を大きく変更したものだったと、橋本は話す。
「当初、妻側は初代社長の作品に通じるデザインを提案していました。おそらく僕らの中にはどこかでこれを継ぐべきという固定観念があったのでしょう。後からチームに参加した設計者から別の案を出されたとき、最初は驚きましたが、結果的にこの変更はとてもよかったと思います」
 基本設計の後半に差しかかる頃、チームに入った意匠設計の宮武慎一は、
「進んでいたファサードの案は、妻側のデザインが若干、内部の空間構成や機能と合っていないと感じたんです。パドック側と馬場側をつなぐモールについても、吹き抜けをつくるだけでなく、もう少し緑や自然光を取り入れた空間にしたらどうかと思って。まだ変更もギリギリ可能だろうと、思い切って提案しました」と話す。宮武から提案を受けた橋本は、
「段階的に跳ね出している妻側のデザインは、一見ありそうでなかなかない、新しくて挑戦的なかたちでした。すでにプロポーザルは通っていましたが、JRAさんにはこのデザインの方がダイナミックで迫力が出ますと、新たな案を伝えて、柔軟な対応をしていただきました」という。
 完成した建築は片持ち構造のスタンド席の大屋根が最大25メートル、京都府産木材を菱格子で組んだパドック側の大庇が18メートルと、長い跳ね出しを実現している。さらに妻側の両面も段階的に跳ね出している建物は、シャープでスタイリッシュな印象を見る者に与える。
 だが、柱を立てない片持ちのデザインをかたちにするには、建物の安全性と強度を保つために構造的な検討が欠かせない。現場に1年半常駐し、施工者、鉄骨業者との調整に当たった構造設計の西田哲朗は、四方向に跳ね出しのある建物が完成するまでのプロセスをこう話す。
「スタンドの大屋根が25メートルある上に、東西南北に跳ね出したデザインは、構造的にも施工的にも難易度が高いものでした。建設中は跳ね出し部分を仮設の柱で支えながら作業しますが、その柱を撤去すると鉄骨は下がるので、事前に柱を外したときに生じるたわみを施工者さんと協働して計算することで、最終的なラインがフラットになるようにしています。京都競馬場のスタンドはどれほど大きなものであるか。今回、現場で組まれた足場は、そのスケールの大きさを象徴していました」

パークテラスをコンセプトに、より開かれた場づくりを行ない、
競馬場=ギャンブル場というイメージを刷新する

これまで来場者の年齢層や男女比が偏っていた競馬場を、より開かれた場にしたい。そんなクライアントの意向を受け、設計チームが提案したのが、パークテラスというコンセプトだ。パドックと馬場をつなぐモールに「空中庭園」や「光庭」を設置するなど、緑と自然光を取り入れ、居場所を増やした場内は、従来の競馬場のイメージを刷新している。また、馬主用フロアについても、改築前とは趣きを変えていると橋本はいう。
「今回、ヨーロッパの競馬場を視察して強く感じたのが、競馬文化の違いでした。たとえばイギリスでは、ドレスアップした紳士淑女が料理の供された大テーブルを囲み、ワインを飲みながら談笑しています。話には聞いていたものの、日本人が連想する競馬場=ギャンブル場というイメージとは異なる雰囲気を目の当たりにして、改築を機にこうした社交場的な空間をつくってはどうかと、JRAさんに提案しました」
 外観や空間づくりと並び、競馬場の設計で重要なのが、エリア分けと動線の整理だという。騎手と来場者をニアミスさせない/巨額の賭け金を、場内で安全に運ぶ/万が一、審議が必要な事象があった場合、裁決委員が最上階から最速で地上に降りられるルートを確保する……。バックヤードも広い競馬場は、競技関係者と来場者の動線を分けることが不可欠だが、この点についても、竣工式典の席で日本騎手クラブ武 豊会長から“動線がすごくよくなり、快適性も安全性も増している”と、お墨付きをもらっている。
「構造設計者が現場に常駐する機会はほとんどない中、監理も兼ねて1から100まで関わった今回は、すべてが勉強になりました」(西田)
「グランドオープンの日に本当に大勢の観客の姿を見て、自分でもびっくりするほど感動したのは、他の建築の竣工時にはない経験でした」(宮武)
 これまで関わった中で最大規模の建築についてそう語ったふたりに、
「何十年に一度という競馬場改修の仕事を若い設計者に経験してもらえたことは、会社にとっても本当に財産になったと思います」と橋本はいう。
 各々の設計者のことばは、人びとが期待とともに足を運ぶ大規模な施設の設計に携わるという得難い経験の大きさを伝えている。

設計担当者

大阪事務所工事監理部部長  橋本和典

大阪事務所設計部 設計主事 宮武慎一

大阪事務所構造部 構造主任 西田哲朗

設計担当者の肩書は、2023年12月の発行時のものです

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