建築から学ぶこと

2017/09/20

No. 590

デザインは事件となり、そして生き残る

ザハ・ハディド(1950-2016)を一躍有名にしたのは1983年の香港ピーク・国際建築コンペだった。その衝撃は、審査員のひとりだった磯崎新氏が強く推した経緯ともに記憶される、事件とも言うべきものだった。ともあれ、ザハはそこを基点として多くの作品を世に送り出してきた。たとえば、2014年に竣工したソウルの東大門デザインプラザ(DDP)の迫力はすさまじい。それはうねり、きらめき、人を包みこむ。このDDPの位置づけは、ソウルが「世界デザイン首都」(WDC)に選定されたことと関連していた。一方で、ザハはアンビルトの女王、と呼ばれた。その言い習わしは、東京の国立競技場の計画が高コストを問題とされて中止に至ったことで世に知られるようにもなった。そこでは、ザハのコストは収らないと評されたのだが、韓国が実現させたのも日本が方向転換したのも、背後にそれぞれの政治の事情が漂う。
そのように、建築は、しばしば世間を賑わせながら生み落とされる。京都では、1964年の京都タワーをめぐる景観論争に始まり、1990年半ばには京都ホテル(京都ホテルオークラ。1994)と京都駅ビル(1997)をターゲットとして高さ制限をめぐる論議で沸騰する。国際指名コンペを経て原広司氏に委ねられた京都駅ビルは9月に20年を迎えたが、その記念行事での来賓の祝辞には、その滑り出しに多くの議論があったことが前置きされていた。実のところ当時の京都では、デザインそのものは大きな論点ではなかったはずだが、原デザインは今も問題を提起し続けているかのように健在である。
そもそも、景観論争はパリのエッフェル塔(1889)のときもあった。そう考えると、はっきりとした視点がある建築はたくましく時代を生き延びてきているのだ。それぞれの建築が私の好みにフィットするかは別として、そのしぶとさは敬服に値する。

佐野吉彦

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