2008/01/09
No. 114
2008年は、京都議定書の「約束期間」がスタートする。日本は世界に率先してCO2の削減に取り組むことになる。目標数字の達成は重要であるけれども、長い眼で見れば社会のさまざまなシステムに手を入れる必要が出てくるだろう。日本という国のモデル変換が迫られる。建築や都市がそこに含まれるのは当然のことだ。
さて、その場合の日本とは日本政府なのか、日本人のことなのだろうか。飯尾 潤氏は「日本の統治構造」(中公新書: 2007年サントリー学芸賞受賞)のなかで「西洋の政治学では、国家(state)と社会(society)のニ分法をもとに議論を展開することが多い。国家には社会は含まれないのである。しかし多くの日本人は、自分を国家の一員であると思っているのではないだろうか。(中略)日本ではステートとしての日本国家が深く社会に浸透し、その境目がはっきりしなくなっている。」と論じている。そういうメンタリティが育ったゆえに、明治以降の日本は官民一体で国のかたちをつくることができた。それが今後もうまく機能するなら、脱温暖化に向けても適切な協力関係が可能であろう。ただ、政府が構図を十分まとめあげているとも思えないし、市民の意識も幾分ムード先行だ。私は、飯尾氏の指摘を反省的に受け止めて正しい役割分担を考えることが重要だと思う。
いったい、国家と社会はどのように向きあうべきなのか。朴 裕河氏の「和解のために」(平凡社: 2007年第7回大仏次郎論壇賞)は、国家間が過敏になったり国民相互が過敏になったりする韓日関係の不幸を冷静にたどりながら、「国家は責任をもって国民の暴挙を防がなければならないが、国民もまたときには国家の暴挙に対する制御装置となる必要がある。そのように国家と国民が互いを牽制しあえるとき、韓日間の衝突はくいとめられるに違いない。」このケースでは、双方の国において、正しい距離感と役割認識を求めている。まして、いま日本が直面している課題は一国の問題ではなく、すべてグローバルな問題である。国家を越えて、民の自立した心構えが必要なときでもあるのだ。今年は、民の役割と責任について腰を据えて考える年だと思う。