2013/05/22
No. 376
東京理科大学工学部建築学科(*)が創設50周年を迎えた。出来上がったばかりの「東京理科大学工学部建築学科/50年の記録」は、明瞭な事実確認をおこなってまとめた労作である。ここには教育体制や教え学ぶための道具立ての変遷が盛り込まれており、現代教育史の面からも興味深く、貴重なデータベースと言えるだろう。このように構築されたインフラの上に、教官のバトンリレーがあり、研究が蓄積され、学生がそれぞれの成長を遂げたことがわかる。私はこの建築学科の14期生なのだが、ページをめくってゆくと、学科の歴史は、時代と折りあうために劇的な転換を選ぶよりも、安定的な学びの基盤をいかに築くかに意を用いてきたことが理解できる。
私は、教師も含めたわれわれ専門家には、「建築がもたらす価値とは何か」および「建築を学んだ専門家はどういう可能性を宿すか」について、ただしく社会や次世代に伝える責任があると考える。それがやがて社会のコモンセンスとなり、社会を豊かにすると信じるからである。自分の過去を反省しながら考えると、建築を学ぶ若い学生には、どこまで専門家が社会で役割を果たせるかを想像するのは難しい。当然、時代が変われば専門家の行動半径には変化が起こるものだが、建築学科で学ぶ経験、建築実務の経験が育む知恵と知識は社会をよりよくするために有効に機能している。その事実の重要性は、教員と卒業生が連携して次世代に積極的に伝えるべきだと思うのである。
さて5月18日は、その50年記念行事の日。現役教員と卒業生たちは良好な協力関係のもとにこの事業を運営した。私は運営にも携わりながら記念講演にも出講したが、世代が異なり、教える側も学ぶ側も混じりあう聴衆へのレクチュアはなかなか刺激的な時間だった。ここでは、上記のような専門家のミッションをめぐって、建築にかかわった6人の専門家を例に引きながら話をした。そのなかでの片岡安やジャイメ・レーネルなどの社会における足跡は、建築学科とそこに学んだ者が獲得できる広がりを示す好例である。建築学とは可能性に満ちた学問だと、誇りに感じようではないか。