2015/02/18
No. 462
大学での建築学科の最終ステージにある卒業設計のさきには、建築士資格があり、建築設計でメシを食う日常が続いてゆく。学生たちがその重要な節目で何を考えているかを知る機会は、すでにプロの世界に長くいる者にとっても興味深い。過日、ある大学でおこなわれた作品のプレゼンテーションの場に出向いたが、いつもながら示唆に富むものだった。彼らはそれぞれにとってのかけがえのない場所を敷地に選ぶ。建築を学んできた者は、土地の性格性状を限られた時間の中で見極める力を鍛えてきており、そこにある課題を切れ味よく解決してみせる。ときおり造形力の勢いが溢れだすものに出会うのは実に楽しいものである。
ただ、その敷地での解決からどのような普遍的な知見が得たかとなると、ややもどかしい。そのアイディアの先に何かの展開があるのかと思いきやそれだけだったりする。フィールドワークから学問を編みあげるような論理構築力は、学部を終えようとする段階ではまだまだ鍛え方が不足しているのだ。ところがこの難点は、2年後の修士設計では知的な進歩によって解消されてくる反面、なかにはデザインの奔放さを失う者もいる。ある種の割り切り感覚を身につけてしまうのだ。二律背反の状況は実務でも起こりうるものだが、このような、若い時期の成長と停滞はデリケートで、ベテランが手を貸すべきかどうか難しいところではある。
近年は大学のワクを越えて腕を試しあい、個人として刺激を受ける機会も増えた。だが、そこでプレゼンテーションの技量を競いあうだけではつまらない。結局はデザインの視点と論理の視点を兼ね備えた教員が、泥臭く指導する教育環境を整えることに尽きるのだろう(なお、設計を志す者こそ、論文をしっかり書く訓練は積んでほしいものである)。