建築から学ぶこと

2018/08/22

No. 635

夙川の空気が生んだ文学

詩人の中村憲吉(1889-1934)は、1921年から5年ほど大阪毎日新聞の記者として勤務した。そのおりに、夙川の片鉾池という溜め池のほとりに居を構える。憲吉には、この風景を詠んだ「鉾池の大松原は息づくか 池のほとりに花粉を敷きぬ」という歌がある。この池は南に下がった位置にある集落や田畑に水を供給するため、満々と水を湛えていた。当時よりひとまわり小さくなったものの、片鉾池は阪急夙川駅から少し南に下がった場所、夙川の堤の西側に整備された公園の中に、いまも健在である。ちなみに憲吉が目にしたのは松の花粉で、今は、当時は堤になかった桜の花びらが、春の水面を彩っている。
彼が向きあっていた片鉾池のまわりには、そのころ徐々に変化が進んでいた。まず、池とそれに面する丘一帯が1907年から13年に遊園地として使われたあと、17年に跡地が大神中央土地の所有となって宅地開発が始まり、20年になって阪急夙川駅が開業する。農村風景が残る一方で、郊外風景としての形が整いはじめる時期である。やがて去る中村憲吉と入れ替わるように、1923年に谷崎潤一郎(1886-1965)が関西に移ってくる。程なく夙川は谷崎にとって運命の地となり、さらに「細雪」の中で重要な舞台となる。
それだけ「役者」が登場するにもかかわらず、夙川エリアが特定の作家と結びつくことは少ないと言える。たしかにカトリック夙川教会(1932)と遠藤周作(1923-93)との縁が語られ、夙川が海に出るあたりの明るい風景を村上春樹(1949-)が描くなど、名のある作家にインスピレーションを与える場所にはなってきた。だが彼らはそのテーマを花咲かせるべく、結局はどこかへ移ってゆく。夙川を含む阪神間には、絶え間ない動きがあるのだ。だから来り住む者にもチャンスをもたらしているのであろう。

佐野吉彦

1931年、夙川にあった安井武雄邸

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