建築から学ぶこと

2011/11/30

No. 304

かれらの足あと/続編

前回紹介した、チェコ国営テレビの「Sumne stopy(麗しき足跡)」では、小林聖心女子学院でもロケがあった。本館(1927)の設計はレイモンド(1888-1976)であり、そこでの協働者であったスワガー(1885-1969)が紹介されている。驚いたのは、番組の中で本館の映像とともに、隣接する聖堂(1965)の設計者として竹腰健造(1888-1981)、小学校校舎(2008)の設計者として安井建築設計事務所の名も言及されていたことである。当然ながらそれらの設計は本館のデザインとのつながりを意識しながら進めたわけで、この番組がキャンパスにレイモンドからの自然な継承があることを認めたのは、私個人にとって、とても光栄なことであった。思いがけず、レイモンドと自分との間も明瞭な糸で結ばれたことになる。

そのような糸が少しばかり、後藤新平(1857-1929)との間にもあるような感じがする。そう思ったのは、「後藤新平—大震災と帝都復興」(越澤明、ちくま新書)を読んだときである。後藤は初代満鉄総裁を務めて(1906就任)当地の都市計画を手がけたのち、国内で都市研究会を結成して都市計画法と市街地建築法の2つの法律の制定運動を開始した(1916年ごろ。1919年公布)。その運動の中枢には大阪で関西建築協会(現・日本建築協会)を設立した建築家・片岡安(1876-1946)も加わっていた(第109回参照)。時期で言えば、祖父・安井武雄(1884-1955)が満鉄に在籍した1910年-1920年のあと、帰国して片岡安の事務所に入所し、1924年に独立したころに当たる。裏付ける資料は残されていないが、どうやら、安井はこのネットワークに連なっていそうである。

結果として安井武雄は後藤が整えた近代のなかで仕事を続けた。まっすぐでもあり、多様な知恵が流れ込んでいる。ある時期、竹腰とともに日本建築協会の活動に関わっていたようだから、満州とチェコから始まった人の縁が、時を越えて小林聖心女子学院の森のなかでめぐりあっているというのは不思議なものである。

佐野吉彦

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