建築から学ぶこと

2008/04/23

No. 129

両義性のなかに生まれる解

7年ほど前、たまたま書店で「水の音楽 オンディーヌとメリザンド」を手に取った。世紀末文学と音楽との邂逅をめぐる切り口がなかなか魅力的な本で、文学と音楽とあいだにある微妙な距離感をていねいに描き出してみせていた。私は、そのあとがきで、著者・青柳いづみこという人が現役のピアニストであり、出版と同時に同じタイトルのディスクを出しているのを知り、非常に興味を持った。なぜ、著者は2足のわらじを履いているのか?その後、演奏者の視点から書かれた「ピアニストが見たピアニスト 名演奏家の秘密とは」や「ピアニストは指先で考える」といった評論に目を開き、ドビュッシーと武満徹の近さ遠さをデリケートに弾き分けていた最近のコンサートを楽しみながら、この人の仕事にますます関心が深まっていった。青柳さんの問題意識とはいったい何なのだろう?

<ピアニストというのは、もともと同時にいろいろなことをしなければならないので、かけもちは慣れている>というくだりが、「翼のはえた指 評伝安川加壽子」にある。青柳さんが才能に恵まれていることは疑いないが、複数の線を引いてみて、それが交差するところに何が起こるかというありようを探っているらしい。その出発点について、「ドビュッシー 想念のエクトプラズム」のなかで自らの中にある<両義的な感受性>のことを書いている。色あいの違う方法論が合流しているのだ。そのポイントに立って、青柳さんは考える。ドビュッシーはなぜ世紀末デカダンスのどろりとした交友に浸りながら、音楽表現としては脱色されたスタイルを選んだのか。「音楽と文学の対位法」に<音楽は本来抽象的なもので、概念を固定できないからだ>とあるように、この問いかけの作業が最終的に行きついたのは、文学言語と対置させることでの、音楽言語に固有の特性を明らかにすることであった。

以上のことを整理すれば、まず青柳さんは複眼的な視点にまたがることを自らの使命(方法論)として選択する。そして両義の上に立つことから生まれる解とは何かについて究め、そこからフィードバックして表現を削り出そうとする手順を踏んでいるのだと思われる。そのプロセスは、建築言語とは何かを考えるに際して、示唆に富むものとも言えるだろう。

佐野吉彦

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