建築から学ぶこと

2014/01/08

No. 407

私の干支の年

今年の当家の年始には、2種の干支を飾っておいた。飛騨高山の「真工藝の木版手染ぬいぐるみ」と、肥前鹿島の「能古見(のごみ)人形」で、それぞれの午ののどかな表情が部屋を温めてくれる。高山や鹿島との親族ゆかりはないけれど、私にとっては長年にわたる縁が続く大切な土地でもある。歳を重ねる度に、あるいは訪ねる度に干支人形の数が増えてゆくのは嬉しい。新しい技芸を生み続ける地・高山生まれの人形も、鍋島更紗の技術を復元した鈴田照次氏が戦後に始めた能古見人形(どちらの伝統も後継者である鈴田滋人氏によって大切に受け継がれている)も、その土地への親近感と比例してわが家の空気に馴染んできている。

そのような穏やかな感慨とともに始まる、私の干支である2014年。実は、生年である1954年は、第五福竜丸がビキニ環礁近海で水爆実験に遭遇し、洞爺丸台風が1761名(洞爺丸乗船の1155名を含む)の命を奪うという、悲痛な災害で記憶される年である。前者はともかく、どの時代も災害とは天災であり人災と言える。その後に、米ソの核開発・宇宙開発競争があり、国鉄には三河島事故(1962。これは良く記憶している)があった。気象観測技術は改良を重ね、テレビは災害時の情報共有の手段となっていった。1954年の困難な事件は、続く時代ではそのように推移したのである。

この年に生まれた政治家は、困難な事件が残した課題を解く運命にあるのかもしれない。米国のコンドリーザ・ライス元国務長官、そして安倍晋三首相など、私と同じく還暦を迎えるのだが、まだまだ先は長い。私と言えば、横浜市大船にあった国鉄官舎で生まれ、次の年に父は国鉄を辞して、岳父が1924年に創始した安井建築設計事務所に移った。この事務所も、建築における課題を解き続けて90年目となった。

佐野吉彦

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