2009/06/17
No. 185
ピアニストの青柳いづみこさんが、演奏におけるパートナーと音楽を通じてお互いのことが心から理解できたと思って話をしてみたらぜんぜん噛み合わなかった、という話をしていた。これは音楽におけるコミュニケーションが高度であるというよりも、音楽における楽譜が、通じやすい相手とも通じにくい相手ともうまく付きあえるように、コミュニケーションのルールが定められていることに由来する。クラシックとジャズでは多少事情は異なるかもしれないけれど、すぐれた音楽家が、日常会話のような自由度の高い局面でうまく機能しないというのは、想像すると興味深い。なお、音楽と文学の両面で才能を発揮する青柳さんだから、こうしたギャップを感じ取ることができるのだ。
きっと、相手と場面によって適切なコミュニケーション手段というものがあるのだろう。人類の歴史とはコミュニケーションゲームづくりの歴史だとも言える。イヤなやつと将棋を指すとかダンスを踊ってみると、カチッと歯車が噛み合うようになっているらしい。音楽も政治もおなじ。道具立てをうまく使えば、それが歴史を転回させることはありそうだ。
建築をつくるプロセスも、よく練りこまれてきたゲームだと思う。建築が音楽と共通するのは図面を基軸にしていること。違うのは集約した時間での勝負でないことである。言葉のコミュニケーションは図面に結実するが、その不備を補うものではない。それでも図面の隠れた意味を引き出すことは出来る。建築ができあがったあと、建築主がユーザーに語りかけるときに、つくるプロセスでの言葉のコミュニケーションの充実は、おおいに役に立っているであろう。最近訪れたある教育施設で印象的だったのは、建築がもたらした成果に心から満足している学園の長の話だった。ここでは建築家が建築をつくるプロセスを通して「コミュニケーションの専門家」にモチベーションを与えていたことになる。