建築から学ぶこと

2010/11/03

No. 252

敵役をつくるより、自らを問い直す機会を

12-13世紀ヨーロッパのキリスト教世界には、正統から異端への激しい弾圧があった。カタリ派やワルド派と呼ばれた異端は、権力奪取や分離運動を目指したのではなく、教えにおける身体や言葉の問題を提起しようとしたのである。実際、そのテーマをめぐって日常的にはトライアンドエラーがあったはずで、問い直す意義もあったのだが、その集団的運動が広がりを持つことをローマは怖れた。かくして問い直しの機会は猶予されてしまい、その代わり、権力の維持のために<敵役>を設定する知恵を、ヨーロッパは学んでしまったのだ(参考:小内田隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」:NHKブックス)

自らの安寧あるいは現状保持のために、悪役を設定することはしばしばある。そうやって、ヨーロッパも他の地域も、その後の数百年の歴史のなかで似たようなハンドリングミスを幾度も幾度も繰り返しながら、法の概念を整備し、宗教的権威と世俗の権力とを分離し、国連やEUなどのような、無用の固執や熱狂を鎮静する国際協調システムを創案する苦労をした。それでも世界の平和が実現しないのは、いまだ<敵役>を想定したがる国家自身に原因がありはしないか。変わりたくない自分自身とはしばしば厄介な事態を引き起こすものだ。

<敵役>とは、つまるところ、自らの「鏡像」と言えるのではないか。敵に与えるイメージとは、自らが滑り落ちかねない陥穽である。それを二国間関係、とりわけ最もデリケートに取り扱うべき隣国関係にあてはめることは避けなければならない。そこに対立の構図をつくっても得することはあまりないのだ。自らの基準ではなく、相手の視点で隣国とのあいだを見つめる作業は、有効なつきあい方である。異質なものと定義しがちな隣国との交わりの中から、自らを冷静に問い直すことができる。たとえば、科学や技術における競りあいはお互いが触発しあうべき機会でもあり、国際的連携の道を拓く可能性につながる。隣国は敵役ではない。

佐野吉彦

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