建築から学ぶこと

2008/12/03

No. 159

風景への眼差し

写真は真実を写し出すものか。確かに、シャッターを切ることでそこに在るモノが画像として定着するだろう。カメラを発明する情熱はそれを目指したに違いないが、それよりも、写真とは、真実を捉えようという意思にこそ意味があるものだ。人は明らかにしたいものを見るのであって、必要のないものは見ない。たとえ受動的にカメラを向ける状況でも、やはり対象やその瞬間は選択しているはずだと思う。この点では、ジャーナリズムと写真とは近接した関係にある。

実際、個人的にカメラを構えるときに、そのようなことを考える。一方で驚くのは、自分の見馴れた場所を撮った誰かの写真のなかに、自分の知らない視角を発見するときである。それを手がかりに、撮影者の立脚するところを知ることは実に興味深い。個性ある眼差しが、そこにあらわれるのだ。たとえばロンドン在住の写真家・米田知子の視点は入れ子構造になっていて、過ぎ去った時代の人物の眼を釘付けにした場面を再現してみせたりする(連作「見えるものと見えないもののあいだ」など)。歴史に自らを冷静に重ねあわせる作家だ。チェコに生まれ、京都に住むTomas Svabは、日本の何気ない風景に慈しみを感じつつ、その異化を試みる人。私の好みは、油彩のブリューゲルのような趣向の、京の田圃の風景を扱った写真である(「畑の収穫」)。

John L Tran が取り組んだ日本とイギリスの風景をはぎあわせる試みも面白かった(「No Place Like Home」展)。異なる文化であっても、共有できる感覚があることを画像の中で確信しているようだ。さてわれわれは現実を眺めると、脳裏にある伝統的景観は、意識しようとしまいと、多くの部分で変質してしまっている。そのことを彼/彼女らは予め見抜いていた。景観を見る眼差しが複眼的であるとともに、未来を複眼的な表現で切りだす能力を備える。その個性ある眼差しと作品は、変化を積極的なものとして見つめるところから歩き出している。

佐野吉彦

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