2008/07/16
No. 140
これは何のミュージアムだろう?と中をのぞきこんでいたら、手招きされた。学生時代に学んだあやしいイタリア語がうまくかみあってしまい、結局、その歴史的建築の地下階にある小さな展示スペースを見ることになった。これは「レジスタンス・追放・戦争・人権・自由の博物館」というもので、ひとびとの自由が奪われた1938-1948年のトリノを記録する場所である。重要なテーマだが、案内スタッフがずっと付き添っていたために、この重い展示の隅から隅まで、じっくりとつきあうことになってしまった。
歴史的にも、トリノはいろいろな支配者が入れ替わってきた場所であり、それぞれの時代の記録が重なりあっているのがよく観察できる。中世の城塞が残り、サヴォイア家のもたらしたバロックはこのまちの個性的な面差しを形成している。その地下が、ある時代の隠れ家として使われた。重苦しくも未来を渇望した10年の証言が、その現場において語られる。訪問者は、20世紀ヨーロッパが経験した2度の大戦が、どれほど精神的にも深刻な危機をもたらしたかを知ることができる。そして、危機とはどう乗り越えるのか、乗り越えられるべきなのかということを学ぶのだ。
トリノで見た、UIA大会に関連する展覧会のなかでは、「オスカー・ニーマイヤーの100年展」が興味深かった。100歳に到達したその人生は、20世紀をほぼカヴァーしてきた。そして、作品に宿る強靭で明瞭なモダニズムにはいまだ衰えがない。驚異と言うべきだろう。一方で、やや失礼な表現を使うなら、屈託がないままここまで進んできたようにも見える。そう感じるのはトリノが有する複雑な手触りにひきずられすぎたせいかもしれない。それにしても、20世紀はいろいろな成果を生んできたものだ。この重い世紀は、建築も音楽も美術も文学も、「個」の覚悟がなければ新たな価値が生まれなかった。それぞれの成果がそう叫んでいるかのようである。