建築から学ぶこと

2010/07/14

No. 237

美術館をめぐる試み

ハコモノ、ということばが嫌いだ。市役所やホールをつくるかどうかの議論が起こると、「いまさらハコモノなんて」の反論から始まり、果ては「ハコモノの是非を問う」が政局になったりする。なぜそれをつくるか、中身をどうするかの議論より前に、オカネの話にすり替わってゆくのは情けない。ハコモノという後発の造語に風土性や文化を押しこめている印象がある。

地域文化を育む役割があるはずの美術館が、ハコと呼ばれるのは悲しい。でなければ何なのだろう。たとえば、美術館とは誰のものかと問われると、すっぱりと答えられる用意はできていない。管理責任者である首長のものでも、限られた専門家のものではない。でも人気作家・企画を呼ぶとか、市民の創作活動の発表の場を用意するとか、まず民を慮る場所であるべきというのも違う。どうも、関係者たちは同床異夢であり、相互に対話がないように見える。美術館とは幅広い層によって形成される・共有される活動体と定義されるべきであろう。つまり、ハコモノという名刺ではなく、「動詞」としての美術館として。

2004年スタートの「美術館にアートを贈る会」は、そこにあるはずの、いやあるべき関係性を明らかにする呼びかけだ。市民が少しずつ拠金して美術館に作品を贈る活動なのだけれども、そのアクションは、市民と管理者と作家のあいだの相互理解をベースの上にある。ベースづくりもアクションも無理はせず、合意したときから歯車を少しずつ動かし、理解を広げながらゆっくりと回転させるものだ。まず2006年に藤本由紀夫さんの作品「HORIZONTAL MUSIC」を西宮市大谷記念美術館へ、そうして今年、栗田宏一さんの「ソイルライブラリー/和歌山」を和歌山県立近代美術館へ寄贈する成果が生まれた。

新しい公共を構築するという観点では、生きた経済の裏づけをおこないながら、社会が共通の理解に達するきっかけをつくってみている。アーティストも美術館も、社会と節度あるつながりを持つことは活動の上で意義がある。あくまで、寄贈というありかたは試みのひとつなのである。

佐野吉彦

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