2015/03/11
No. 465
大阪の春には、大相撲春場所の賑わいがある。春場所の開始は1953年で、<年間6場所、春3月が大阪>というパターンが確定したのが1958年。それは近世近代に盛んだった大阪相撲という興業の記憶を受け継ぐ側面がある。同じく大阪の名物行事、4月の桜の季節の「造幣局の通り抜け」は1883年(明治16年)に始まる長い歴史がある。ちなみに造幣局が創業した1971年(明治4年)に開館したのが、現在は敷地外にある大阪最古の近代建築「泉布観」(重要文化財、ウォートルス設計)が<造幣寮応接所>である。さて、その創業と前後して、明治6年に、造幣局に隣接して大きな神域を持っていた川崎東照宮が、廃社になった。その西に位置する大阪天満宮が営む天神祭がずっと夏の主役である一方で、川崎東照宮が春の権現祭で大いに賑わっていたことは今日では忘れられている。「通り抜け」は、失われた春の祭りの記憶が残っていた時代に、同じ季節の行事がバトンを受けるようなかたちでスタートした側面があるようだ(独立行政法人造幣局・新原理事長談)。
いずれも地域における好リレーである。当然ながら、通り抜けに宗教行事の看板はないが、春の到来を慶ぶ宗教的な感情は底流にある。これは祭が災害などで一時的に潰えたとしても、文化風土をゆっくりと持続させる術はあることを示している。一方で、ひとつの文化ムーブメントが異なる風土で花を咲かせた事例は、そのムーブメントの骨の強さを示すものと言えるだろう。好例がバウハウスで、ワイマールで高みに達した教育システムは、モホリ=ナジら教授たちが渡米したことによってシカゴに種が蒔かれ、大戦後はイリノイ工科大学のシステムに組み入れられて根を下ろすことになる。彼らは生き延びる運を信じたということであろうか。