2006/07/05
No. 40
ルネ・フレミングはMET(メトロポリタンオペラ)をはじめとして、歌手として幅広い活動で知られる。最近、この世界的に人気の高いソプラノの自伝「魂の声」が出版された。ここには今日の名声を獲得するまでのさまざまな苦労や喜びが記されている。だが、この本は単なるサクセスストーリーではない。プロフェッショナルであることの条件について、素晴らしく分析的に書かれているのだ。
歌手にとって、身体そのものが楽器だ。すなわち、ひとりひとり異なった身体的特性・制約を持ちながらの闘いがある。ルネは「身体の各部をイメージして、精妙なつながりをもって動かすことができれば、最終的にはごく自然な響きを作り出すことができる」と記しているが、背景には自らの弱みを自覚したうえでの努力がある。また「ある歌い手が偉大な芸術家になれるかどうかは、声という楽器を繊細なコミュニケーションの道具として使いこなせたかどうかによる」というのはさらなる努力への覚悟である。プロは、自己を過信しないのだ。
これだけなら、若い音楽家向けの良いアドバイス本である。ところが、ルネが言うことはさらに奥深い。「大切なのはなんと言ってもテクニックだ。しっかりとした技術的な土台さえできていれば、たとえ声が枯れてもその日のうちに優しくなだめすかして、取り戻すことができる」というのは、若い建築家にも、スランプに陥ったスポーツ選手にも優れた示唆を与えるくだりではないか。加えて、「若い歌い手はいつも心をオープンにしておかなければならない。レッスンはどこにころがっているかわからない」と述べて、実はすべての世代に対し、弛緩した精神のツボを刺激している。
さて、この本を通じて一層のファンになった私は、METがルネを帯同して来日とあれば、じっとしてはおれない。サントリ−ホールでリヒャルト・シュトラウスの美しい響きを堪能したあと、楽屋口に並び、「魂の声」にサインを貰いに行った。この本は若い人を勇気付ける本だと思う、と言い添えたら、とても丁寧なお礼の言葉が返ってきた。