2007/01/10
No. 65
散文に比べて詩は音楽に近い。そのことについて、マイク・モラスキー著「戦後日本のジャズ文化」は、チャールズ・ハートマンの記述を引用している。「詩とは耳の優位性を独特な方法によって保存する原語であり、聞かれない詩(少なくとも読者の頭の中で音として響かない詩)というのは、読まれない詩に等しい」というものである。
同著はジャズが日本の戦後の文学や映画、社会現象などに及ぼした軌跡を追っている。この引用は詩人・白石かずこがどのようにフリージャズというスタイルに影響を受けたかを論じるときになされる。朗読を重視した白石は、ミュージシャンのように個々の音の長さや高さ、音量、そしてつながりにとりわけ意識的であった。それはジャズとの「共振」によって、詩作の方法がより明瞭になったものだ。モラスキー氏は、ここでジャズが日本の詩人の可能性を広げた(ジャズ的に揺り動かした)ことを検証している。
書く言語と語る言語、眼で見る言語と耳で聞く言語。洒落ではないが、五感には互換性があり、複合性がある。百人一首の中の「有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」(大弐三位)の歌もそうだろう。口に出してみればサ行の音がかさかさとした音を奏でている。それらの操作を駆使したインタラクティブな理解・共感といったものが、詩の世界には存在する。詩を経験するとは、本来そうした豊かな世界を確認することと言えるであろう。ちなみに字数やページ数だけを取ると詩集の価格は割高であるが、そこには経験する多様な時間が内包されているのだ。
そう考えると、詩はもっと読まれてよい。アメリカの大書店と比べてみると、日本の書店の詩のコーナーが極端に小さいのは、つくづく不遇なことである。建築のコーナーも恵まれているとは思えない。建築にも、詩的な経験と同じような五感の互換性や複合性があることを考えると、この不遇さもこの国の建築に対する世の理解の浅さと共通する。建築にある豊かな時間をこそ、楽しむべきなのに。この話は次号に続く。