建築から学ぶこと

2007/09/12

No. 98

さまざまな声、さまざまなステージ

1988年の夏、ニューヨーク近代美術館の庭では週末に連続コンサートが開かれていた。作曲家ジョン・ケージ(1912-1992)の75歳を記念した連続コンサートである。その年当地に滞在していた私は、毎週彼の音楽を「観に」通った。鍵盤の蓋を叩くピアノ曲、サボテンや野の実を打楽器とする曲などなど。その不思議な視点の数々に、都会の暗騒音や時折のクラクション、樹叢の鳥の声がかぶさるという、偶然であり必然である時間を楽しむ機会であった。ケージとは場所の権威性を疑ってみせ、そこに潜む可能性を気づかせる人なのである。

その彼の演劇的作品「ユーロペラ5(Europera5)」(1991)が、先ごろサントリーホール(小ホール)で上演された。演者は歌手2名を含む7名。彼はここでオペラという旧い形式を疑っているようでありながら、断片的な情報を編集してしまう社会を風刺しているようでもある。この度のホールの改修によって広がった舞台と、向上した音響性能は十分活用され、ケージの有していた仕掛けと皮肉はますます的確に実を結んでいる。それは「観て」も「聴いても」興味はつきない時間であった。

オペラと言えば、作曲家タン・ドゥン(1957-)の「始皇帝(First Emperor)」が6月に放映された。メトロポリタンオペラでの世界初演で、チャン・イーモウの演出、ワダ・エミが手がけた豪奢な衣裳も含め、指揮棒も振るタン・ドゥンの企図は徹底したもの。お腹一杯、大満足という感じだ。番組ではリハーサルシーンも紹介されていたが、主演のプラシド・ドミンゴが「作曲家とは本当に皇帝だね」と皮肉を呟くと、知的な中国人タンは極めて真顔で「いや、作曲家は音楽の奴隷だ」と応じていた。それは音楽家のプライドと、興業としてのオペラの実像が浮き彫りになった瞬間であった。

これはつまり、優れた音楽は、ナマな現実社会を媒介してこそ実現するという逆説なのだろうか。カネも仕掛けもあり。その現実をたっぷりはらみつつ、ルチアーノ・パヴァロッティ(先日逝去)の声は素晴しかったのもひとつの例である。やはりあの1988年、夏草生い茂るセントラルパークの野外オペラで彼のドニゼッティを聴いたことは懐かしい。

佐野吉彦

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