建築から学ぶこと

2021/01/06

No. 752

明月記に学ぶこと

藤原定家(1162-1241)が記した日記「明月記」は1180年から56年にわたって執筆が続けられた。筆者は、平安から鎌倉期へ移る時代にある宮廷社会の日常を、冷静な観察眼を持って見つめ続ける。祭事も、事件も、自然事象(「かに星雲」発現の記録)に至るまで。56年という驚くべき長さの時間は、定家という一級の知識人が官僚の地位、歌人としての名声(新古今和歌集と百人一首の撰者)の両方を極めるまでの歳月である。彼の眼と行動を通じて、現代のわれわれはこの時代の京の空気を知ることができる。

 そこに起こった世事に、定家のこころは揺れ動くこともある。だがその貴族的なプライドはひときわ高いので、生々しい感情を抱いても、高踏的な言い回しで「紅旗征戎非吾事(コウキセイジュウワガコトニアラズ)」と書きつける。騒乱に天下ざわめくなかで、争いなど自分に関わりのないことだ、と言い放つこのくだりは、明月記のはじまりの1180年に現れ、後期の1221年、承久の乱を受けて再び登場している。ここには、意思と離れて動く世界に向きあい、自らの行く手を定めようとする若い定家と、人生を振り返りながら自らの思想の軸足をたしかめる壮齢期の定家がいる。

明月記は漢文で書かれているので、私には原文で細かいニュアンスを読み取れたわけではない。それでも、自分の思想を紡ぎ出すために、丁寧に世界を読みとくことから始める、という定家の姿勢には敬意を表する。そこから前回紹介した「言葉が根を張る」成果が生まれるのである。加えて、定家には篤い信仰心があることを記録からたどることができる。それは自らの意思を超えるものに率直に身を委ねる姿勢であろう。定家のまなざしは、理知的であるが、かつ宗教的な謙虚さをも宿している。それゆえにその言葉は、現実に誠実に向きあうところから思想を鍛えるべきことを現代のわれわれに教えてくれる。新型コロナウイルス感染症を冷静に乗り越え、2021年を良い年にしてゆきたいものだ。

 

参考:藤原定家「明月記」の世界(村井康彦著、岩波新書2020)

佐野吉彦

丑年、始まる(能古見人形)

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