2023/05/17
No. 868
4月の終わりの週に3つのお別れ会があった。ひとりはパブリックアートを多く手掛けた作家で、デザイン・制作・建築・発注者にまたがる友人たちが集まった。ほとんどが故人と飲み友達のような付き合いもしていたから、屋外を使った会場は、和やかさを含むものだった。もうひとりは建築分野の企業経営者で、社業だけでなく私学の同窓組織に尽くし、自ら名手として鳴らしたスポーツの団体発展に貢献した人で、その日は裾野の広さを感じた。さらなるひとりはいわゆる地域の名士で、福祉法人を経営し、地方議員を経験し、いくつかの再開発でリーダーシップを執ったから、その地域の官民を越えた来訪者があった。
共通するのは、生前の活動を物語る画像が豊富に紹介されていたことである。新型コロナウイルスの流行が始まって以来、こうした会は開催されないか、かなり切り詰めたかたちで開催されるかだったから、ようやく人の一生をゆっくり振り返り、敬意を表することができる日常が戻ってきた感がある。それにしても、いくら豊富な知恵と技術を持っていても、死がそのすべてを奪ってしまうのは残念なこと。それでも、お別れ会の空気から、故人が紡いだネットワーク自体は消えないだろうと確信できたし、育てられた人材はその意思を受け継ぐに違いない。結局のところ、ひとりが生涯を賭けて目指したものは、その人生を越えることによってはじめて完成するものかもしれない。そこには有名人であるかないかの区別はない。
おそらく、かたちの生成に関わったこれらの人の場合、生み出したかたちの中にその情熱とメッセージが結晶している。それは次に続く者に大きな勇気を与えるだろう。そう考えると、建築を改修しながら使い続けることによって、社会を適切に持続させるための知恵を汲み上げ続けることができるのだ。