建築から学ぶこと

2011/12/14

No. 306

芸は相手のために

立川談志が亡くなった。噺の巧さ以上に個性的な生きざまが報道されていたけれども、多くの優れた弟子、正統的に噺ができる弟子を育てたところは尊敬できる。落語を次の時代につなぐ責任感を持っていたのだろうか。それはさておき、私はいろいろなところで落語を聞いたことがある。寄席、国立劇場、座敷。20人くらいの集会室、学校の階段教室、ホテルの宴会場、うどん屋(ちなみに美々卯です)。およそ失礼でしかない野外もあった。それでも、「これ」「へーい」なんていう対話を独り語りした瞬間、商家の店先空間が聞き手に正確にイメージされていた。主人と丁稚の距離感は的確である。時に心地の悪そうな会場を操りながら、もしくは空間に全く惑わされることなく、上手に世界をつくりあげる噺家はたいしたものだと思った。

彼らの磨いた技量は、すべて客が噺を理解する、そして楽しむために奉仕している。音楽も演劇といった時間芸術はすべて同じことが言えるだろう(私には現代語を使わない能や歌舞伎は予習が要るけれども)。台詞や楽譜自体を音声に置き換える技術を鍛えることは中間点であって、その先にある表現の巧拙が決め手となる。「テクニックというのはいつも演奏の可能性を広げるために活用されるべきです」とチェリストのゲルハルト・マンデルは言っている(「楽譜を読むチカラ」:音楽之友社2011)。そうして聴き手が演者の表現を受け止めるとき、もはや技術を磨いてきた「臭み」は消えているのではないか。

建築が自立したかたちを表現するためにあるのか、要求条件をかたちに移し換えるためにあるのかはどちらでも構わないのだけれど、技量がコミュニケーションをとるべき相手のために余すところなく使われているかどうかは考えてみるべきであろう。補足説明なしで、建築そのものがすべてを語りつくしていなければならない。噺家の評価が噺そのものにおいて評価されるように。

佐野吉彦

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