2006/08/02
No. 44
1930年代に起こった世界恐慌は、世界を不安定な状況に巻き込んだ。その原因は1920年代末に米国・連銀(連邦準備銀行)が「資産バブル」の芽を早期に摘み取ることを目論んで無謀な引き締めをしたことだ、とも言われる。そこから連銀が学んだこととは、連銀の役割を一般物価の安定化を目指して金融システムを安定化することに絞ること、バブル崩壊後に金融システムに混乱が起こらないよう、予め備えておくことであった。近年の金融における世界的な危機から身を守ることができたのは、この歴史的認識によるとされる。
私には経済の問題を論じる知識はあまりないが、近代史のなかで人々が金融の安定にどう意を用いてきたかということから、重要な知見を引き出すことができる。たとえば、危機に際していかにその任にある人間が、役割に沿って適切で果敢な行動をとることの大切さ(ここでの政府の役割は財政政策の発動である)。これは経営論として学べる史実であろう。
さて、恐慌の悪夢は、国際金融の安定化への努力へとつながり、1944年に開催されたブレトンウッズ会議から、1970年代中盤まで続くブレトンウッズ体制、IMF・世界銀行がスタートすることになり、米ドルを中枢に据えた国際通貨体制が戦後をしばらく引っ張るという構図ができた。このことから、安定したシステムは個別の事情を吸収できるクッションであることを学ぶことができる。
ひるがえって、ドイツから移ったミースがイリノイ工科大学の主任教授となったのが、1938年であることが想起される。1920年代のアールデコスタイルの高層ビル(ニューヨークのクライスラービルを精華とする)から、ミースからSOMへと受け渡される明瞭で力強い高層ビルのデザインスタイルへの発展。ここには経済学を支えてきたシカゴ学派と同じ空間から生まれた、合理的で理想主義的な精神を感じる。ここで開発された安定したシステムは、同じように1970年あたりまで通用しているのだ。