建築から学ぶこと

2021/12/08

No. 798

万博が大阪にもたらすもの

1961年、大阪の北部地域に千里ニュータウンの建設が始まった。その後、東京オリンピックの翌年の1965年に、千里の東に隣接する山林が<大阪万博>の会場に決定し、開発が一気に動き出した。その当時は、会場跡地を大阪の副都心としてビジネスゾーンに整備する構想があった。この動きとともに交通インフラ整備が進み、南北の軸である地下鉄御堂筋線が1964年開通の東海道新幹線の新駅・新大阪駅を経由して千里まで延伸したほか、私鉄の都心部への路線延長・地下鉄乗り入れが実現し、大阪の軸が強化された。道路ネットワークでは、万博会場付近が名神高速道路とその後開通する環状高速道路の結び目となる。大阪国際空港(伊丹)は1970年に滑走路が3000mに延び、ターミナルビルが整備され国際線の玄関となった。まさに万博は都市改造を推進するシンボルだったのである。

一方で、1970年は分水嶺だった。すでに深刻化していた公害問題が環境意識の高まりを生み、拡大指向の都市計画の見直しも進む。1980年代になると大阪中心部に居住環境が整いはじめ、万博跡地も、緑豊かな大公園として近接地域の質の向上に寄与する結果となる。ビジネスゾーンにはならなかったが、万博跡地の一部に大阪大学、国立民族学博物館などが設置され、サイエンスの拠点としての新しい展開が生まれた。その後日本のインフラ整備が進んだこともあり、鶴見緑地での1990年の<花の万博>では、地下鉄新線がエリアの利便性を高めたり、跡地が穏やかな緑地に再整備されたりはしたものの、大きな都市変革を起こす契機にはなっていないと言えるだろう。

そうなると、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにした2025年の<大阪・関西万博>はどのような展開をもたらすだろうか。未来社会を提案する取り組みは1970年にもあったが、もはや会場内だけ別世界という時代ではない。ハードだけではないネットワーク構築が鍵を握るのではないか。それ以上に、こうした社会提案において、大阪が能動的な変革者になれるかは重要である。万博を大阪が脱皮するチャンスにしたいものだ。

 

*この原稿は私が書いた記事「歴代万博開催に伴う大阪都市開発の変遷」を下敷にしている(「OSAKA-World Expos as Urban Transformative Engine: Harvard University GSD編、2021」所収)

佐野吉彦

1970年大阪万博 (photo:takato marui, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)

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