2008/02/06
No. 118
ダニエル・バレンボイム(1942- )は、得がたい音楽家だ。指揮者としてもピアニストとしても一流であり、かつレパートリーの広さを誇る。私が実演で聴いたなかでも、モーツァルトの協奏曲の「弾き振り」もブルックナーもブーレーズも、どれも余裕を持ってこなしている感があった。正統的な風格だ。ただ、日本ではいかにも熱血タイプのほうが好まれるようだけれども。
そのバレンボイムが、この1月にパレスチナの市民権を得たという。アルゼンチン生まれのユダヤ系でイスラエル国籍を持つだけに、画期的な報道である。彼はパレスチナとイスラエルの若手奏者から成るオーケストラを育てるなど、当地にある現実とは逆に、壁を取り払う努力に懸命に取り組んできた。その功績なくしては実現しえなかった措置である。
そのことは理解できるものの、彼は政治的な思惑で動いていたのではないだろう。そう感ずるのは、パレスチナ系であるエドワード・サイード(1935-2003)との刺激的な対談「音楽と社会」(2004、みすず書房)にある彼の発言ゆえである。ひとつは「・・まずはじめに自分が何者であるかを断定し、そのうえで、勇気を持ってそのアイデンティティを手放し、それによって帰還の道を見出す」というくだり。この続きには「これが音楽の本質だと思う」とある。別のページで「ものごとが進展していくなかで起きる諸要素の流動性を受け入れる勇気をもたなくてはならない。あらゆる発展、あらゆる出発は、何かを後にすることを意味する」とあるのも、実は音楽について語ったくだりだ。
つまり、彼が優先して位置づけているものは国家や民族でもなく、音楽である。そこにある「異なる他者を結びつける可能性」を信じることを価値の基準に置いているのだ。ある意味ではそれが彼なりの政治的なセンスというのかも知れないが。同じことで言えば、ユダヤ系の建築家ツヴィ・ヘッカーや彫刻家ダニ・カラヴァンのシンボリックな造形も、本当は芸術家としての普遍性、表現者としての誇りに由来しているのだと思う。