2019/08/21
No. 684
シーザー・ペリ(1926-2019)の名前を知ったのは、学生のころ雑誌で見た、Pacific Design Center(1975)の鮮やかな色彩と造形である。今の私は、この解がプロジェクトの特性に由来することと、カリフォルニアの土地の風光からも合理的に導き出されたことを知っているが、当時は、この建築が何を乗り越えようとしているかがよくわからなかった(磯崎新さんの作品を見すぎたせいかもしれない)。その後私が1988年に米国に滞在していたとき、ペリ氏はWorld Financial Center(1987)という大きなマッスを無理なくニューヨークの街にフィットさせているのに驚いた。
その年に機会を得て、建築家ピーター・グラック氏の道案内によって、ニュー・ヘヴンにあるオフィスを訪問することができた。ペリ氏はそのころはイェール大学の建築学部長の任を終えたばかりだったが、オフィスには多くの新たなビッグプロジェクトがあふれていて、とても忙しそうだった。柔軟に建築を捉え、技術と土地のコンテクストの間のなかでバランスの良い選択をする姿勢。それはサーリネン仕込みなのかもしれないが、さらに多くの仕事を確実にまとめる能力が高かったのだろう。それが彼に多くのチャンスを与えていた。日本での作品も、総じて都市にフィットする解決策にたどりついていたと思う。
さて、ランチをご馳走になりながら、私は緊張しつつ、設計事務所の経営についていろいろ青臭い質問を投げかけた。ペリ氏は、いま110名のスタッフがいるがちょっと多すぎるかな、と言っていた。確かに彼は1999年発刊の自著“Observations for Young”でも「70-90人くらいが最良」と記している。さらに「経営者だけでなく、働く人すべてが喜びを感じ、働き甲斐のあるのが良い事務所である」とあるように、設計組織の理想を目指し続けたペリ氏は、最後まで意欲が衰えることはなかったと感じる。