建築から学ぶこと

2021/02/17

No. 758

機関車のデザインとともに

子供の頃、家近くの鉄橋あたりで国鉄の列車を飽きることなく眺めていた。列車表示には西鹿児島とか米子行きとか。西へ向かう長距離急行を牽引するのはEF58という電気機関車で、私は引き締まった前面のデザインに魅せられていた。機関車も客車も青色塗装で、しゃかしゃかと小気味よい音を刻んで橋を渡っていった。兵庫県西宮市に育った少年には青い色は彼方へ誘う色として体に馴染んだ。1960年代が始まるころである。

中学や高校にかけて、遠出をするようになると、彼方には違う色があることを発見した。米原から北陸を目指したときや、関門海峡を潜って九州の地を踏むと、そこには赤い電気機関車がきらきらと輝いていた。交流電化エリアの始まりである。ずっと鉄橋で見ていたのは直流の世界だったので、まさしく赤はフロンティアの色だった。

60年代は北陸・九州・東北の在来線、そして新幹線などが交流電化で延びてゆく時期にあたる。交直流方式の併存は今日も変わらないので、エリアでの色のイメージはいまだJR各社にも私にも残っている(JR九州は赤がテーマカラーだ)。もっとも、かつてほど風景の中で機関車の姿が見えにくくなっている。

そした変化の中で微妙に感じていたのがディーゼル機関車である。そのころ蒸気機関車は徐々に退場し、そのあとを電化という順序で進んだ。その途上で、貨物主体のD51や客車を牽くC57などに替わって電化前の幹線の主役となったのがDD51という、凸型の赤い機関車だった。運転台が中央上部にあり、前後にエンジンを内包するから凸なのである。こちらの赤の登場はいくぶんデリカシーを欠いているように私は思えた。赤い先頭が茶色の鈍行、青い急行を牽くのはデザインも色のバランスも、そしてエリアのイメージにもフィットしないと感じたのである。

やがて電化区間は大きく広がったが、機関車が牽く長距離列車は少なくなり、貨物輸送の存在感も減った。そして、国鉄民営化以降はほとんどディーゼル機関車の製造はなくなり、DD51は遂に3月には定期運行から引退する予定である。DD51は馬力もあって使いでの良いマシンだったが、過渡期に重要な役割を果たしたことは評価しておきたい。

佐野吉彦

DD51の赤い色は雪原にはよく映えた。 <Photo:DD51612

アーカイブ

2024年

2023年

2022年

2021年

2020年

2019年

2018年

2017年

2016年

2015年

2014年

2013年

2012年

2011年

2010年

2009年

2008年

2007年

2006年

2005年

お問い合わせ

ご相談などにつきましては、以下よりお問い合わせください。