2010/12/01
No. 256
その確信は、自ら動くことなしには得られなかったものである。
日本語で書く作家・リービ英雄は「ひとつの言語の固有の歴史を受け入れて、それに参加するというのは、まさに今の時代だから見える姿勢ではないか」と記し(「我的日本語」)、ドイツ語でも書く作家・多和田葉子は「現代では、一人の人間というのは、複数の言語がお互いに変形を強いながら共存している場所である」と語っている(「エクソフォニー – 母語の外へ出る旅」)。ここで、かれらは言語というものの可能性を問い直している。言語に宿る、人そのものと社会とを変える力を信じている。
一方で、イギリスの作曲家・ベンジャミン・ブリテン(1913-76)は、日本滞在中に誘われて見た能「隅田川」に触発され、中世イングランドを舞台にとったオペラ「カーリュー・リヴァー」(1964)へとそれを翻案した。「隅田川」はさらに、フランスを根拠地とする吉田進による新作オペラ(2007)となって再び脚光を浴びる(*)。もともとの哀しい伝承は人を介して旅に出て、生き続けたのである。同じようなケースでは、能「班女」が三島由紀夫の「近代能楽集」に取り上げられ、それを細川俊夫がオペラ化(2004)してヨーロッパで高く評価された例もあるが、そのようにして文化や国境をまたぎながらひとつのアイディアが奥行きを増してゆくのは興味深い。逆に言えば、原初のアイディアにそれほどまでの生命力があったということである。
廣瀬 純(映画論)は、「映画は鏡ではありません。むしろ世界や社会のほうが鏡なのであり、映画の後を追っているのです。さもなければ映画に限らず芸術などいったい何の意味があるのでしょう」と断言している(「格闘する思想」より)。この時代に必要なのは、先取りするほどに強いアイディアと表現、そして自ら行動する人間ということになるだろう。
(*)青柳いづみこさんからいただいた情報です。