建築から学ぶこと

2012/12/12

No. 354

江戸期のネットワーカーたち

大坂・北堀江(現在の大阪市西区)に居を構えた木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736-1802)は、本草学者・文人画家・コレクターなど多面にわたる顔を持つ。その活動は広い範囲の交友をもたらした。かつての北堀江は大阪湾に向いた交易の結び目であり、それもあって多くの来訪があった。第11次朝鮮通信使(江戸時代に12回あった)も蒹葭堂邸を訪ねたという(1764)。その堪能なオランダ語を活かした広汎な文献調査、メカニズム解明の姿勢は、のちに大阪に興隆する蘭学、適塾の誕生(1838)につながっていると思われる。

情報のネットワーカー/コーディネーターという点では、同時代の平賀源内(1728-80)と共通した功績がある。源内もまた本草学者であったが、彼らは国外の事情を探りあて、情報感度の高い人物と会おうとし、事業に取り組み、多くの学術的成果を残した点が共通している。彼らがつくりあげたのはまさしく知のネットワークだが、技術や実学を生み出したネットワークであったから、商品開発センターの役割も果たしていたのではないだろうか。かくして江戸初期に成立していた俳諧を通じたネットワークは、老中・田沼意次の時代にさしかかって、成熟したものとなった。それら全体が明治の文明開化の土壌を育てたことも想定できるだろう。

演芸も同じである。四十七士の討ち入り(1703)を受けて、大坂での仮名手本忠臣蔵・人形浄瑠璃版の初演があり(1748)、歌舞伎版はその翌年、大坂と江戸で封切られるスピード。こちらの基盤もネットワークによって活性化されている。そう言えば、現代の名役者だった中村勘三郎もすぐれたネットワーカーでもあった。伝統を守るだけでなく、次の時代に有効な知的創造はそうした逸材が結び目にあってこそ、開花する。同じ年齢の早世を心から惜しむ。

佐野吉彦

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