2021/08/25
No. 783
原爆投下と終戦を経験した8月は、どれほどの歳月が経過しても日本にとっては重要な節目である。時を経て証言者がいなくなる一方で、明らかになる真実もある。戦争の悲惨さを伝える視角を変えながら伝えてゆくことで、これからの知恵になってゆく。現代の日本で戦争について語りかける場としては、多くの記念施設があり、そこに資料の蓄積がある。また各地に記念碑が設置されている。だが、当時の悲惨さをダイレクトに伝えるには「建築あるいは土木の遺構」は遥かにインパクトがある。その例として広島の「原爆ドーム」や長崎の「浦上天主堂遺壁」などが挙げられるが、そう多くあるわけではない。もちろん旧軍の施設で建築的価値のあるものは全国各地にあるし、掩体壕も残っている。外壁に機銃掃射の跡が残る「半田赤レンガ倉庫」は事実を伝える重要な証人であろう。ただし、それらには悲惨な表情がない。
私には、ベルリンの中心にあるカイザーウィルヘルム記念教会の荒れた姿の残存(保全のための修復済み)が印象深い。この街を初めて訪ねたのが1994年の早春で、壁が取り払われて間がないベルリンには荒れた空地が長く続いていたが、それは冷戦の爪痕と言えた。その後幾度か訪ねる中で、ポツダム広場は壁などなかったかのように再開発が進み、かつてのとげとげしさはどこかへ消えた。一方でベルリン・ユダヤ博物館(設計:リべスキント)、ユダヤ人死者のための記念碑(設計:アイゼンマン)が誕生し、悲惨さの語り部は都市の変化とともに入れ替わったことになる。ベルリンが好例だとは言わないが、負の歴史の記憶は都市景観を構成する要素として含んでおきたい。現代の我々は、都市の歩みをただしく伝える責務を担うからである。
戦争だけではなく、自然災害の悲惨さを語り継ぐことも重要だ。阪神淡路大震災では神戸港震災メモリアルパークがあるが、遺構の数は多いとは言えない。しかし、東日本大震災では沿岸各地で震災遺構が積極的に保存され、記憶伝承に努めているのは評価したい。新型コロナウイルス感染症と向きあってきた足跡も、建築を通じて伝えるものがあるとよいと思う。