建築から学ぶこと

2015/07/29

No. 484

ひとつながりのエリアの戦後

終戦が目前に迫った1945年春から夏、全国各都市への空襲が実行された。前回紹介した半田にも7月に空襲があり、市内にある中島航空機の基幹工場が壊滅的な被害を受けた。赤レンガ建物が掃射を受けながら残存できたのは、この場所が少し離れていたこともあっただろう。その中島航空機にも出資していた川西財閥が、同社の技術者を移籍させて設立したのが川西航空機(新明和工業の前身である)で、やがて兵庫県下、特に阪神間に多くの生産施設を配置した。それが神戸大空襲のターゲットのひとつとなる。それは、主力の甲南製作所(神戸市東灘区)をはじめ、宝塚、鳴尾(西宮)などの工場他施設とその近隣を一体的製造エリアとみなしての空襲だった。すでに3月に大阪の中心市街地が灰燼に帰したあとに、5月から8月上旬までの稠密な爆撃によって、西宮から神戸に至る街並みが連続的に焼き尽くされるという結果を生んだ。

阪神間は、温暖な気候に加え、私鉄の発達と一体となって充実した郊外住宅地(そこで多くの阪神間モダニズム建築の名作が生まれた)、港湾の後背地として発展した多様な産業によって、大阪や神戸とは違った個性を持つ地域イメージが形成されたエリアである。一方で戦災だけでなく、同じゾーンをなぞるかのように起こった阪神大水害(1938)、阪神大震災(1995)によって、ひとつながりの阪神間は、度重なる災いから復興に立ち向かう物語を共有することになった。

それがために近代が育てたこのエリアには、陽光のように前向きな気分がある反面、地形の差異や豊かな緑、被災したゾーンなどのパッチワークが独特な陰影を形成している。この地に育った遠藤周作や村上春樹の作品は、阪神間を直接描くことはしていないが、エリアにある微妙な裂け目を自らの主題に宿しているようにも思われる。その意味で阪神間は文学に向いた土地だ。それはまた、良い建築を生みだす可能性にも共通するようにも思われる。

佐野吉彦

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