建築から学ぶこと

2011/01/05

No. 260

才能の生き残り方

30年-35年ほど前の学生時代、イタリア・ルネサンスに惚れこんだ時期があった。建築にかかわるプロフェッションが個人の名とともに、そして魅惑的な作品を伴って顕現した時期。造形芸術も文芸も、すべてが沸騰した夢の時代と感じたのだった。それは、既存のパラダイムが揺らぐ不安定な時代でもあったはずだが、私はまばゆさのほうに心が奪われていた。とりわけレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452生)も、ミケランジェロ(1475年生)もラファエロ(1483年生)もヒーローだった。私は<個の才能>の可能性を信じようともしていたが、彼らの機会を用意したイタリアという地理空間とはどのようなものかにも大いに関心を抱いた。かれらが実際に出会って触発しあったかどうかは不明だが、重なりあう活動領域は、お互いのプライドを密かに刺激していたであろう。造形芸術におけるチャンスに富んだ時代とは、チャンスを先につかんだ逸材が、その時代の動きを活気づかせた時代であった。

1980年の春にフィレンツェを初めて訪れたおり、著名なサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂にある洗礼堂の扉の装飾を見た。そのデザインコンペを制したギベルティ(1381生)のデザインである。魅力的な提案だったにもかかわらず光を浴びなかったブルネレスキ(1377年生)は勝負のあと、彫刻から建築へ転じて歴史に名を残すことになる。その逸話が好きで、滞在中何度も洗礼堂の扉を見に行ったことを覚えている。鉄道に乗ってフィレンツェに近いヴィンチ村に行ったのもそのおり。レオナルドの生家で彼の多分野における成功を解説するパネルを読みながら、レオナルドの人生とは最終的にひとつの分野の専門家となることを断念したものだったのだろうか?と考えた。ルネサンス期のイタリアは才能ある人間を試した厳しい時代だとも言える。結果としてそれぞれの才能なりの生き残り方があったのである。

さて1980年の日本はポストモダニズムへの入口にあった。磯崎新さんは作品をつくりながら、ルネサンス後期のマニエリスムへの注意を喚起し、時代の風向きを切り換えようとしていた。

佐野吉彦

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