2009/08/19
No. 193
私にとっての近江の国は、回廊のような空間イメージから始まった。冬時に東海道本線や新幹線の大津から米原へ向かうと、外気とは遮断されていても、川を渡るたびに空が曇り、景色の中の雪の存在感が少しずつ増す感じがある。逆の向きを走れば、関が原から米原を過ぎるあたりから、春や秋の近江が、とてもやわらかな手ごたえで迎えてくれる。西に連なる比良山系は、日本海側の寒気を遮る役目を果たすのだが、湖西を北上・南下するときにも、同じように風景がデリケートに入れ替わってゆく。
かつて、この地には天下を睥睨した戦国の昔があった。それは東海道や中山道の存在抜きには考えられない。現代も、新幹線や東海道本線、名神高速が通り抜ける交通の便が、車窓から望めるいくつもの工場・研究所を成立させている。近江路は、時代のスピードとこうやって向きあってきたのに、まだここには十分な奥行きを持つ穏やかな田園風景が保たれている。自然も人為も興味尽きないテクストだと言えよう。
さて、甲賀の土山あたりにある美しい茶畑も、街道を介して都会とつながる生産拠点として整ったものであるように、近江は回廊であることで、建築においても「異種の苗」がさりげなく根を下ろしてきた。明治時代には鉄道の要衝でもあった長浜の近代建築群。それは現代のまちづくりの核になっている。美しい町並みの近江八幡に根を下ろすヴォーリズ。MIHOミュージアムや佐川美術館など、個性的な花が開く懐の深さには不思議なものがある。これに多賀大社も三井寺の存在感に、かつて戦国の安土にあった南蛮寺などを加えれば、宗教的にも幅が広い。今は森となった苗は稀なる個性によって植えつけられたものにちがいない。
近江に横たわる琵琶湖の水は、疎水を経由して近代京都に導かれ、産業を興隆させた。片や、瀬田川からゆっくりと流れ出す水流は、京都の南でさらに木津川や桂川などの水量を束ねて淀川となり、下流の大阪を目指して今日も畿内全体に水を供給している。近江はこれまで同様、アクティブな回廊であり続けるだろう。