2024/03/06
No. 908
自伝本は、何よりも人が成長する過程での試行錯誤の遍歴が興味深い。その<行きつ戻りつの展開>の結果として、つながっていなかった文化同士を当人がブリッジする役割を果たす成果を挙げるところは特に目が離せない。そのひとりドナルド・キーンの「自伝」(中公文庫2011)はじめ多くの著作からは、キーンさんのおかげで日本の文学の伝統の隅々にきちんと光が当たったのかと、驚きとともに知ることになる。まだまだ活躍が期待される河田惠昭の自伝「災害文化を育てよ、そして災害に打ち克て」(ミネルヴァ書房2022)は、災害をめぐっての識見に満ち、その知恵が世界に通じる普遍性を獲得していることが理解できる本だ。
一方で優れた聞き手を介した聞き語りは、<オーラルヒストリー>という呼ばれ方をする。そこには、当人の高い知性に、聞き手の鋭い問題意識がクロスしておりスリリングで面白い。鶴見俊輔「期待と回想」(朝日文庫2008)、山崎正和「舞台をまわす、舞台がまわる」(中央公論新社2017)、岩井克人「経済学の宇宙」(日経ビジネス文庫2021)、内田祥哉「内田祥哉は語る」(鹿島出版会2022)といった収穫では、聞き手の積極的な働きかけによって、当人が有する多様な論点群、あるいは幅広い功績群に奥行きが与える成果をもたらした。それぞれに、インタビューに留まらない豊かな対話がある。<オーラルヒストリー>は、自伝とは異なり、聞き手の知力が試されるカテゴリーなのである。
そう考えながら、建築のことを思い浮かべていた。たとえば、個人住宅には家主の趣向や精神の基盤といったものが宿るものである。設計に優れた建築家が関わることによって、それらは適切に読み解かれ、かたちをまとう。良い住宅は、オーラルヒストリーと共通した豊かな対話に基づいている。