建築から学ぶこと

2010/02/10

No. 216

組織の能力が問われる

このところの、いろいろな組織が自らのトラブルにどう対応するかのシーンを、もどかしい思いで眺めている。何か起こると、社会に対して事実について説明責任を果たすべき、という共通理解がゆきわたっているので、理事や役員から説明がなされたり、コメントが出たりする。具体的に情報を公開したので、どうかご理解賜りたく、という趣旨がこめられる。だが、説明責任の原意Accountabilityとしては必要十分だったのか。末尾に-ityがあるということは、組織としての説明能力が駆使されているかが問われているはずで、社会が十分納得できるレベルに達することが出来なければAccountabilityは果たされていないのではないか。その視点では、満足できるレベルに達したものは多くないようだ。

東京大学大学院の班目春樹教授の解説を借りれば、具体的に説明するというイメージは理系と文系で異なるようである。前者は言葉の説明が欠けやすく、後者は図象化が不足しがちになる。理系の組織と文系の組織もそういう違いを感じるが、それらを組織の個性と認めるにしても、見過ごせない指摘である。おそらく、説明を納得という段階に至らせるために足りない能力は、組織は日常から補強・補完しておかねばならないのだと思う。それなしで説明に臨むと、現状体制の維持が大事なのか?という疑いを抱かせてしまう。

社会的責任からいえば、いかなる困難に直面しても企業や団体を継続させることは非常に重要である。ただそこで、法律上問題がないとか、正しい手続きを踏んでいるとか、トラブルの原因は現執行部の責任ではないとかの主張をするだけでは、主体性も能動性も存在しない。この場面は、組織はこれからどうするのかを伝える適切な場面であるのに。

どの時代においても、組織に求められるのは、ひとを育てる力なのではないか、と思う。健全さとは、組織自身に能力を広げてゆこうとする風土があり、そこに属することでひとの能力が育つシステムが用意されていることをいうはずだ。そういう組織を、社会は決して追い詰めたりはしない。

佐野吉彦

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