2011/02/02
No. 264
建築設計はひとりでは完結できない。組織化して取り組むことによってその内容は充実したものとなり、構成するメンバーの作業責任が明らかになる。その認識は古代からあったと思われるが、近代に至って意識的になり、安定した設計組織/システムが指向されるようになった。それは近代産業の組織化とも連動しており、設計者を育成する教育システムの整備とも歩調を合わせている。建築設計が民間の視点に立つ限り、時代と社会の変化を受け入れながら、あるいは先取りしながら組織/システムを整えるのは自然なことである。ここに、設計の成果が社会資本を構成し、都市の活力維持・発展に寄与するという意識があれば、日常の設計作業ひとつひとつには、社会的責任が裏打ちされてくる。
そのことを「16人の建築家 竹中工務店設計部の源流」(井上書院、2010)を読みながら考えていた。同著は、藤井厚二が1913年に竹中に入社したあたりから北村隆夫の最盛期までの116の設計思想を追い、それぞれがどのような設計プロセスを重視していたかを明らかにしている。温厚なまとめ役もいれば、やんちゃ者もいる顔ぶれ。ほとんど正反対のベクトルを向くキャラクターも並存しながらバトンが受け継がれ、この大組織としてのパーソナリティを形成する養分を残している。
着目すべきはここでの設計思想もプロセスも、発注相手とどう向きあうかがキーとなってきたことで、それらはプラクティカルな側面抜きには考えられない。具体的な成果やサービスが、阪急の小林家や朝日の村山家と竹中との信頼関係をつくり、それが良好な作品群を生んだのである。一方で、戦前の阪急電鉄にいた技術者・阿部美樹志という人とのつきあいには歴代のリ−ダ−が苦闘したようだ。それでも、重要な局面で定石を外しにかかる存在(関西流に言えば、難儀なおっさん)に振り回されたことは組織に緊張感と粘りを与えたかもしれない。ある意味では経営史上書き残すに足る項目である。
これも建築設計における共同行為のひとつと言えようか。消耗しかねない建築ライブではあるけれども。