2011/08/10
No. 290
8月6日は広島、9日は長崎の原爆の記念日であり、15日は終戦記念日である。それぞれに宿る固有の重みを、戦後の歳月が受け継いできている。共通するものは平和への希求であり、その意味をあらためて感じとることが戦後を生きる者の務めとなってきた。そこに今年の広島や長崎には、原発の問題が重なろうとしていた。多義的な意味を含む原爆投下と終戦に、いまはまだ整理がついていないテーマ。それぞれの視点がぼやけることがないようにしたい。少なくとも、これらの記念日に向きあうとき、その受け継がれた意味を掘り下げ続けることは敬意ある態度であろう。
同じく記念日が記憶される(であろう)、関東大震災(1923.9.1)・阪神淡路大震災(1995.1.17)・東日本震災(2011.3.11)などには、様相の異なる被害と背景を有しながらも、災害からの当面の復旧・人が生きることへの尊厳・地域や国土の長期ヴィジョン転換などの重点的なテーマがあった(ある)ことが共通している。ジャーナリズムも政治も、それらをはっきりと切り分けながら具体的に取り組むべきである。それは悲嘆に終わる日でも、将来像を示すだけの記念日でもない。それを着実に積み重ねてゆくことで、日本という国は生き延びることができる。
この7月以降、米国には政府債務上限引き上げ、国債格下げがあり、続いて世界同時株安という事態が起こっている。欧州市場も不安定であり、さらに平行して、相変わらずの円高である。このどうみても不安定な世界、共同で解決に当たるべき世界にあって、日本という国家の真価が問われているように思われる。ここでジャーナリズムも政治に望むのは、企業の組織改革論や生き残り戦略などを参考にしてほしくないということである。制度やスキームを変えればうまくゆきます、というような「借りてきたようなリーダーシップ」を期待してはいない。