2022/08/24
No. 832
19世紀末、パリ万博では浮世絵が印象派の画家たちにストレートに影響を残した。シカゴ万博では、フランク・ロイド・ライトが日本館に強く感銘を受けている。このような、日本が育んだ様式美やミニマルな表現は、歌舞伎・人形浄瑠璃・能・狂言といった演劇も含んで、様々な機会を通じて西洋に魅力が知られるようになった。それぞれの演劇には「ふるまいの型」があり、新鮮な印象を与えたであろう。想像ではあるが、たとえば建国間もないソ連に出かけた1928年の歌舞伎公演などでは、意匠や色彩とともに、言葉と音楽の複合的な表現を成立させるために、どうコミュニケーションを取っているかも、大いに関心を呼び起こしていたのではないか。たしかに今日の私が見ても、人形浄瑠璃は驚異である。複数の人形にそれぞれ3人の遣い手がかかわりながら人形同士がいきいきと対話をし、太夫の声と三味線の合奏が指揮者なしでそれを破綻なく支えているのである。能楽でも、能面で顔を覆っていても、適切な位置取りと動きができる高度なことをやっている。
もともと、古今東西の民俗芸能ではいちいち指揮者が立っていたわけではない。指揮者の意義を言い立てる発想は近代のものである。現代日本の伝統芸能は、本来ある自発性を維持しているとも言えるし、創意工夫しながらコミュニケーション力をさらに進化させてきたとも言えるのではないか。なお、現代の作曲家が能のありように触発された作品を手掛けている(ベンジャミン・ブリテン「カーリュー・リヴァー」(1964)、カイヤ・サーリアホ「Only the Sound Remains」(2016)、細川俊夫「松風」(2010)など)のは、この方法から、もう一度ハーモニーのありかたを掘り下げるヒントを得ようとしているからでもあるだろう。すでに日本の伝統芸能は、世界に開かれた最先端の共有資産になっている。それらが次の時代でもいきいきと活動するために支援することも極めて重要である。