2015/06/03
No. 476
眼の前で起こっているできごとや情景は、いつも過去からの延長線上で新しく生まれている。同じようなことは2度と起こらないものだが、過去をふまえて少しずつ変化して姿をあらわすものだ。だからこそ、人はそれに静かな感慨を憶え、どこかしみじみとした気分になるのではないか。そうした細やかな味わいを感じ取ることは、また感じ取ろうとすることは、人生の中の豊かな喜びというべきものである。
先日逝去した杉本秀太郎さん(エッセイスト、仏文学者1931-2015)の文章には、そのような眼差しがたっぷりとしみこんでいた。<洛中生息>(みすず書房1976)が初めての出会いだったが、京の町家に満ちている空気、春夏秋冬の風の匂いやかすかに聞こえる祭の音色など、大切なものを見逃さない。そこには深い思索と感受性の基盤があって、凄みさえ感じさせる。その後いくつもの佳品とめぐりあってきたものの、残念ながら杉本さんとお話する機会はなかった。それでも、お住まいの<杉本家住宅>(重要文化財1870)を拝見するご縁はあったのは幸であった。この味わい深い建築と庭は公益財団法人の手でていねいに維持・公開などがなされているが、文学者の感性を育んだ空間として、後世に受け継いでゆく価値がある。
その杉本さんの葬儀のことを京都在住の通崎睦美さん(木琴奏者)がブログで紹介していた。通崎さんは卓越したクリエーターであり、優れた文筆家である(<木琴デイズ 平岡養一「天衣無縫の音楽人生」>:講談社2013で各賞受賞)。同じように分野をクロスする青柳いずみこさん(ピアニスト)も参列されていたという。このおふたりは、音楽を文学の側から静かに語っていた杉本さんと向きあう位置にあるが、複眼的な眼差しのもとに奥ゆきのある成果をもたらして、文化の上質の部分を受け継いできた。未来はいつも、豊穣な土壌の上に花開くのだ。