2007/07/25
No. 92
いまもそうかもしれないが、吉田秀和さんが演奏会場に顔を見せると、空気が締まった感触があった。いったい今日の演奏をどういう文体と形容で表現するのだろうか。ずっと以前、休憩時間のロビーで明晰な響きで語っている吉田さんの会話を、思わず聞いてしまうことを楽しみにしていた。でも、まだ現在形。90歳を過ぎてもなお健在・健筆なのは喜ばしいことだ。
その音楽評論は精妙・洒脱な表現が持ち味だ。たとえば「シューマンには発想の内発性と絶対の誠実さがある」(*1)というくだりなどには思わず吸い寄せられてしまう。それらは直感的な洞察力だけでなく、きちんとした楽曲分析によって支えられている。確実な根拠があるのだ。最近の対談(*2)のなかで「批評は主観的な仕事だけれども、ある意味では社会的発言としての責任がある」と語っているように、あいまいに筆は滑らず、言いっ放しということもない。さらに、「日常的に自分のスタイルをつくるという仕事なくしては、音楽批評は成り立たない。(中略)音楽について書くということは、モーツァルトやシュトックハウゼンの音楽とどうつきあうことと深い関係がある。」とも語っている。吉田さんは、絶えず表現方法を改良・進化させながら、対象ときちんと向きあう姿勢を崩していない。
それは、建築の設計があるべき姿に通じるものだろう。おそらく、自分のスタイルを掘り下げない者は世の魅力を失い、相手との関係をおろそかにする者は設計内容を自ら薄める。だから設計者はいつも新鮮でなくてはならない、ということであろうか。
対談のなかで、向きあう堀江敏幸さん(作家)は「新しい才能を発見しようとするとき、その人の何が新しいかを考える、その心の動きを文字にする。それが批評になってゆくわけですね。」と応じている。設計することのミッションに置き換えてみると、建築主のなかにある<新しさ>を掘り下げてみせる、ということになるだろう。そして、そこから明晰なかたちが紡ぎ出されるのである。