建築から学ぶこと

2011/06/22

No. 283

思想をきたえるみちのり

前回添えた写真にある「ウメサオタダオ展」(国立民族学博物館。終了)の会場は、遊び心のあるものだった。梅棹忠夫さんを顕彰しつつも、梅棹さんと一緒に遊んでみないか?という空気に満ちていて、岩波新書で影響された私のような元高校生、現役の高校生多様な世代が楽しんでいた。ちなみに写真撮影OKとあったので、展示のなかで私が最も琴線に触れたコトバを撮って前回紹介した。「かれ(ダ・ヴィンチ)の精神の偉大さと、かれがその手帳に何でもかきこむことのあいだには、たしかに関係があると、私は理解したのである」というものである。

梅棹さんは、事実を自らの身体を通して認識し、その事実に基いて編み上げられたものが思想であることを述べている。思想とは誰かの思想を借り受けるものではないと捉えているのではないか。それとともに、かれはメモを取る行為自体が愉しい作業であることを伝えようとし、道具の工夫を試みては提唱していた。それに共感した私のメモの習慣は長く続いてきたが、それは明らかに梅棹さんとダ・ヴィンチ(と、真鍋恒博さん)に由来している。

ネットで情報が簡単に共有できる現代は、知的生産において大きな効率化も発見ももたらすのだが、そこで肝心の自分の思想が鍛えられているかどうかは常に自問すべきであろう。梅棹さんは社会・生態の構造を分析する専門家ということになるのであるが、対象の向こう岸にいるのではなく、自ら関与しつつ観察するという態度をとった。すべての日常の実践というものは、事実のうえに思想を組み上げる上で格好の機会であることを、かれは示していた。なお、この会場には「歴史は、だれか他人がつくるものではなくて、わたしたち自身がつくるものだ」との表示もあったが、それはいかようにでも解釈できる。事態を突破することと自体を冷静に見守ることのふたつの重要なポイントを指摘していたのかもしれない。

それにしても、自分自身の関与で社会が変わる実感などなかった高校生の私に比べると、私の思想は多少前に進んだ。

佐野吉彦

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