2015/05/20
No. 474
最近、ピーター・アイゼンマンが、ヒーローたる建築家とスター建築家とは違うとの話をしていた。アイゼンマンにとってのヒーローはフランク・ロイド・ライトだったそうだが、かつて建築におけるヒーローの系譜はそのあとにルイス・カーン、さらにスターリングらへと続いていたのだ、という。それぞれの力は新たな価値を生みだしていたゆえに、かつての若者は彼らに敬意を払い、自らの目標をそこに定めた。だが今の学生は具体的な人物像より、デジタルで切り出す建築のありかたに自分の行く手を重ねているのではないか、とアイゼンマンは語る(嘆いてはいない)。一方で、ヒーローは不在でもスター建築家はどの時代にも現れると、巧みに切り分けてみせたのは、興味深いものだった。
では、黒川紀章さんはどちらだったのだろう。近刊の「メデイア・モンスター:―誰が「黒川紀章」を殺したのか?―」(曲沼美恵・著、草思社)を読んだ後だったので、そこに思いが至った。丁寧な考証に基づくこの本には、彼が建築家としての存在感を大いに高めた足跡と、社会にある建築家の限界を見つめる醒めた目との双方が紹介されている。生前、私は黒川さんとたまたま名古屋―東京間の新幹線で隣あわせになった機会があるが、1時間40分を全く退屈せず過ごした思い出がある。当時、黒川さんはコンペに勝って手がけていたカザフスタンの都市計画に取りかかった時期で、当地をめぐる話題は特に豊穣だったが、世間話にも切れ味もあって、しかも愉快。この幅の大きさを振り返ってみれば、アイゼンマン理論で割り切れないスケール感があったと思う。
建築系でないライターがこれほど痛快な著作をまとめることができたのはそこに理由がある。黒川さんが形と言葉両面で疾走した73年は、西山卯三の門下に始まり、丹下健三に師事してそれを乗り越えることに痛いほどの執念を燃やした生涯でもあった(じつは黒川さんの命日は私の誕生日と同じなのである)。その両師匠は黒川さんより長生きし、それぞれの弟子がつくる「裾野」もまだまだ広い。でも、そのような単純な構図に留めず、黒川さんの作品と論跡をじっくり辿る意味は大いにあると感じる。