2018/02/07
No. 609
知識は個人に属している。その人が学んだものと経験したものは、時間をかけて発酵し固有のデータベースとして育つものだ。ところが蓄積は一代限りでしかなく、肉体が消滅するとともに失われてしまう。何とかして、そこにある知恵を引き継ぐことはできないものか。ひとつはその人の「足跡」を丹念に読み解くことによって、もうひとつはその人が残した「縁」を大切にし続けることによって、それは可能となるだろう。昨年から、近しい者の人生の終局に向きあってみると、生きる側の者にとって、そういった作業はとても重要と感じる。
たとえば、ランドスケープアーキテクトの長谷川弘直さん(1945-2017)。仕事をともにしただけでなく、事務所(都市環境ランドスケープ)が当社のすぐ近くということもあって、街の活動でもご一緒した。たまに昼飯どきに店で合流することもあるくらい、身近だった。長谷川さんは、自らの取組み姿勢を「心象的風景をつくる」と表現してきた。それは土地に内在するコンテクストを自らの手で掘り当てる作業であるが、プロジェクトにかかわる者の心情をも積極的に代弁する作業でもある。造形的に整った解を目指しがちな建築設計者にとって、長谷川さんの攻め方は、始原的なエネルギーがはみだしているように見える。じつはそれがプロジェクトに重層的な響きを加え、一体感をもたらすのだ。たとえば、奈良県立万葉文化館にあるように、地中からあふれ出すような風景をつくることで自然に宿る荒ぶる力を掘り起こし、都会的なものに対峙させている。
独自の切り口が冴える個人が、協働者の資質をただしく見抜き、良い意味で相手の期待を裏切ることは重要である。人と人がつきあい、ともに仕事をすることの面白さはそこにある。だから歩んだあとに弾み感のある「縁」が残ってゆく。長谷川さんのお別れの会(2月2日、大阪・綿業倶楽部)は、そのような人生の本質を伝えてくれた。まさに長谷川さんの空気だ。