建築から学ぶこと

2010/04/07

No. 224

40年前、そして現在に学ぶもの

1970年の大阪万博は、当時高校1年だった私の精神をおおいに高揚させた。会場のいろいろなところに潜む知的な刺激は、私にとって「原点」となった。ちょうど40年前のことである。最近、当時のパンフのコレクションを披露してくれた人がいて、そこでチェコスロバキア館の建築や映像が質の高いものだったことを思い出した。その時期、1968年にソ連がこの国に軍事介入し、万博の年には西ドイツのブラント首相が東方外交に取り組んでいた。東西融和の可能性の萌芽もあった1970年である。チェコスロバキア館のメッセージには政治色はないものの、苦渋と希望が感じとれる内容だったと記憶している。その他の外国館からも、総じて真剣味が伝わってきた。時代背景ゆえに展示や建築が明瞭な表現が導かれたのだろうか。確かに、どの国も折り返し点に差し掛かっていた(ちなみに、以上挙げた3つの国名はすでに存在しない!)。

その一方で、会場に宿る多様さを明瞭かつポジティブに構築されたインフラが繋いでいた。周回するモノレール、多層に伸びる歩行路とムービングウォーク。結節点としての広場。そこには未来都市のイメージを先取りする「願望」もしくは「欲望」があった。時を経て会場の輪郭はきれいに残り、太陽の塔は時代の証言者のようにそこに立っている。いま千里は花ざかりの丘と変わり、この地に存在した熱気はすでに途絶えた。その試みは、むしろ汐留や台場などの大規模都市開発に接続しているように思われる。丹下健三氏が大阪万博で蒔いていた種は、場所を変えて生命を維持したと言えよう。

ところで、私の“丹下健三建築体験”は、万博での会場計画→東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館、1964)→広島平和記念資料館(1952)の順で遡行している。従って、私が見上げる代々木の姿は、エネルギーを湛えた作品でもあるが、大阪万博経験を呼び起こす存在としてまぶしい。前向きな視点で技術を束ねること、かたちの力を信じること、都市にふさわしいイメージをつくること。それは万博で身体に染みた感覚であり、今も現役の代々木に学ぶべきものである。

佐野吉彦

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